数学では, 話者や読者の論理に高い厳密性が問われる. しかし, 数学において, 話者または読者の少なくとも一方がそれを破り, 表現を見やすく伝わりやすくすることがある.
例えば, 関数を, 純粋な意味での集合から集合への写像$\,f:A \to B$とするのではなく, $A$の任意の元$x$に$B$の元$y$が一意に対応するときの$y=f(x)$と書かれる対応において, 対応$\,f$と従属変数$y$を同一視して, 関数を$\,f=f(x)$(または$y=y(x)$)とすることである. 確かに正確ではないが, 具体例を扱うときや具体例に沿った論理展開をするときは便利であり, しかも厳密性は問題にならない. 微分方程式の解法は厳密性を犠牲にしなければ説明しにくい .
また, 多様体の接空間についても, 接ベクトルとベクトル場を同じ記号で書くことがある. 例えば$2$次元多様体$M$の点$\,p$における接空間$T_p(M)$は局所座標系を$(x, y)$とするとき2つの接ベクトルから成る基底
$$\left\{\left(\frac{∂}{∂x}\right)_p, \left(\frac{∂}{∂y}\right)_p\right\}$$
を持つが, ここでも右下の添え字$\,p$を取って基底を
$$\left\{\frac{∂}{∂x}, \frac{∂}{∂y}\right\}$$
と書くことがある. 余接空間$T_p^*(M)$についても同様に, 基底を
$\{(dx)_p, (dy)_p\}$
と書く代わりに
$\{dx, dy\}$
と書くことがある. もちろんこれらはベクトル場や微分形式の正確な定義を既知とした上での表現である.
また, リーマン計量$g$を内積$g$ということもある. これはリーマン計量$g$が各点$q \in M$で定める内積$g_q$と$g$を意図的に混同しているのだが, これは突き詰めて言えば最初の例である.
微分幾何において多様体の接空間やリーマン計量は多様体それ自体と同じくらいよく出てくるのでそれに関する式もたくさん出てくるし, 高次元になればそれだけ右下の添え字$\,p$がたくさん必要だが, 後者の書き方をすると式が簡単になるのである. 例えば「2次元リーマン多様体$M$の余接空間$T_p^*(M)$に$M$のリーマン計量$g$から定まる内積を$g'$と書く」とあれば, これについて, $M$の各点$q$に対して
$g'_q ((dx)_q, (dy)_q)$
$$=g_q \left(\left(\frac{∂}{∂x}\right)_p, \left(\frac{∂}{∂y}\right)_p\right)$$
という式を
$$g'(dx, dy)=g \left(\frac{∂}{∂x}, \frac{∂}{∂y}\right)$$
と簡単に書ける上に本質が見やすい. (なお, 普通$g'$も$g$と書く. )
代数学では, 環$R$をそのイデアル$I$で割った商環
$R/I$
を考えることが多々ある. そこでは$R$の加法単位元$0$のみから成るイデアル$\{0\}$を$0$と書く. これは
$R/\{0\}=R$
と同一視するからである. $R/\{0\}$の元は$a \in R$を用いて$\{a\}$と表されるから($a$との差が$0$の$R$の元は$a$のみであるから$[a]=\{a\}$である), もし$\{a\}$と$a$を同一視しないなら, 和と積を
$\{a\}+\{b\}=\{a+b\}$
$\{a\} \{b\}=\{ab\}$
と定義し直さないといけない. これは不便である. 加群と部分加群と剰余加群についても同様である.
数学の初学者には悩ましい習慣かもしれないが, 使い慣れたら便利である. それ以上の深い意味はないが…
(ブログからのTeX化)