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ポアンカレに学ぶ科学を勉強する意義

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話題になることも多い「なぜ科学(数学)を勉強するのか」ですが,今回はポアンカレの著作『科学の価値』に基づいてその答えの一つを紹介していきたいと思います.

なぜ数学を勉強するべきか

こういう問いかけをする人たちには見分けをつけなければならないとした上で

実際家たちは、ただ、われわれから金儲けの手段を要求するばかりである。彼らは返事をしてやるに値しない。むしろ、あんなにも多くの富を蓄積するのは何のためなのか、また、その富を享受して
これを楽しむ力のある魂にわれわれを育ててくれるのは芸術や科学だけであるのに、富を得るのに時間を費やすため、これら芸術や科学をなおざりにしなければならないのではないか、
 生活のために生活の目的を放棄する(略)
のではないか、と彼らに聞いてみるのがふさわしい、というものである。
 それに応用だけをめざして科学をつくろうとしても、それは不可能である。真理というものは、互いに鎖のようにひとつなぎになっていない限り、実り多きものではあり得ない。直接の結果が期待される真理ばかりにこだわっていると、途中の輪が欠けてしまい、鎖はなくなってしまうだろう。

と述べています。科学を勉強することが他のことを楽しむ力を培うのに役立つという考えです。一方で好奇心が強く、自然を知りたいと思う人たちに対しては

数学は三重の目的をもっている。まず第一に数学は自然を研究するための道具を供給しなければならない。
 しかし、それだけにとどまらない。数学は哲学的な目的をもち、あえて言うならば、審美的目的をもっているのである。
 数学は、哲学者が数・空間・時間の概念を深く究めるのに援助を与えなければならない。
 しかも、数学の達人たちは、なににもまして、絵画や音楽と同様な喜びを数学に見いだすのである。彼らは数と形のとの精妙な調和を嘆賞し、新しい発見によって思いがけない見通しがひらけるとき、感に打たれる。

と述べています。数と形との調和というところは基本群の考案者らしいと思えるところだと思います。

物理学との関係

より具体的な話へと移ります。物理学との関係についてです。

したがって、すべての法則は実験からひきだされる。しかし、この法則を記述するのには特別な言語を必要とする。日常の言葉はあまりに貧弱であり、それに、かくも微妙かくも豊富で、しかも、かくも精密な関係を表現するのには、あまりにあいまいでありすぎるのである。

言語であるとした上で日常の言葉と比較するというところが新しいです。さらに話は実験からどのように普遍化し、法則を導くかということに移ります。

といっても、どうやって普遍化するのか。個々の特殊な真理はどれも無限に多くの行きかたでこれを拡張できることは明らかである。

この選択において誰がわれわれを導いてくれるのだろうか。
 これは類似以外にはありえないであろう。 

 眼には見えないが、理性だけが見抜くところの真の深遠なあの類似を知るようにわれわれを教えてくれたのはだれなのだろうか。
 それは数学的精神であって、この精神は質料を軽視し純粋形式だけに専念する。質料だけが違っているものに同じ名前をつけたり、たとえば、四元数の掛け算と整数の掛け算とを同じ名前で呼んだりすることを教えてくれたのはこの数学的精神なのである。

ここで、数学が物理に効用をもたらした具体例が挙げられます。

第一の例は、ことばを変えるだけで、初めは思いもかけなかったような普遍化に気がつくのに十分な場合のあることを示している。
 ニュートンの法則がケプラ(略)の法則にとって代ったときにはまだ楕円運動しか知られていなかった。ところで、この楕円運動に関しては、ニュートンの法則もケプラの法則もただその形式が違うに過ぎない。ケプラの法則からニュートンの法則へは簡単な微分で移れるのである。しかしながら、ニュートンの法則からは、直接の拡張によって、摂動のあらゆる効果、また、天体力学全体を導き出すことができる。

ここで言われているニュートンの法則は万有引力の公式のことだと思われます。惑星が円運動している事実から中心力を求める式を立てると、万有引力が現れるのでそのようにニュートンは万有引力を発見したと考える人もいるそうです。りんごの逸話よりも現実味を感じます。続いて次の例に移ります。

 第二の例も同様に考慮に値するものである。
 マクスウェル(略)がその仕事を始めたときには、電気力学の法則、それまでに承認されていた電気力学の法則は、すでに知られているすべての事実を説明することができたのであった。

 しかし、新しい側面からこれらを眺めてみることによって、マクスウェルは項を一つつけ加えると方程式がもっと対称的になり、しかも、その項はあまり小さいので、旧来の方法によって眼につくほどの影響は与えないことに気がついたのであった。

 こういう勝利をマクスウェルはいかにして得たのだろうか。
 これは、マクスウェルが数学的対称ということを深く身にしみて感得していたからなのである。かりにもし、この対称感をその美しさそのもののために研究した人々が彼以前にいなかったのだったならば、こういうことになり得たことであろうか。
 これは、マクスウェルが「ベクトルで考える」ことに慣れていたからである。ところが、ベクトルが解析学に導入されたのは、虚数の理論によってであった。虚数を発明した人々にとっては、現実の世界の研究のために虚数を利用するなどということは、ほとんど思いもよらないことであった。彼らが虚数という名前を与えたことによっても、そのことが十分に証明される。

たしかに。高校数学で特に電気分野は微積分のみならず、三角関数が出てきたり虚数が出てきたりと多くの分野がでてきた記憶があります。ここで言われる対称性について、少し調べたところS-双対というものがでてきたので、それのことかと思いました。スカラー倍の差はあるものの、電場を磁場に置き換えたときに同様の式が成り立つという趣旨の双対性のようです。

 一言でいえば、こういうことになる。すなわち、マクスウェルはたぶん練達な解析学者ではなかった。しかしながら、もし練達であったならば、それは彼にとって無用で邪魔になるお荷物だったに過ぎなかったであろう。反対に、彼は、高度に数学的類似について深く突っこんだ感覚をもっていた。彼がよき数理物理学を作り上げたのはそのためなのである。
 マクスウェルの例がわれわれに教えるところはこれだけにとどまらない。
 数理物理学の方程式をどのように扱うべきなのだろうか。単に方程式からあらゆる結果を導き出して、これを手で触れ得ない実在であるかのように見なさなければならないのだろうか。とんでもないことである。方程式がわれわれにとくに教えてくれるのは、この方程式にどういう変更を与えうるか、また、与えなければならないか、ということなのである。このようにして、はじめてわれわれが方程式から役に立つ何かを引き出せるのである。

第二の例についてこう締め括ります。方程式については学部で常微分方程式の講義を受けたきりですが、方程式に変更を加えるという話は聞いたことがあるので、こういうモチベーションもあるのだな、と納得しました。続いて第三の例を見ていきます。

 第三番目の例は、われわれに次のことを教えてくれる。すなわち、外見上も、また、実際にも、何らの物理的な関係をもたないような、いくつかの現象の間にある数学的類似をどのようにして見つけ得るのか、を教えてくれるのである。

 ラプラス(略)の方程式という名の同じ方程式がニュートンの引力理論・流体運動の理論・電気ポテンシャルの理論・磁気の理論・熱伝播の理論、その他さらにたくさんの理論の中に現われる。
 以上のことから、結果としてどんなことがでてくるだろうか。これらの理論は互いに透き写しにした像のように見える。これらの理論は、その言いまわしを互いに借り合うことによって、互いに解明をもたらす。電気学者たちは、流体力学や熱理論から示唆されて、力束という語を考えだしたのだが、彼らがそのことを喜んでいないかどうか、たずねてみるとよいだろう。

私が少しでも勉強したことがあるのはせいせい熱方程式くらいですが、質量があると引力が発生したり、熱源を与えて熱が伝わっていったり、電荷を与えると電場が発生したりといったことはたしかに類似している気がします。最後に

 数理物理学のもう一つの目的、というよりは、主たる目的は、物理学者に新しい側面からものごとを見るようにさせることにより、ものごとのなかにかくされた調和を知らしめることにあるのである。

とまとめます。

まとめ

なるほど、深い。非常に学術的な立場からの意見だと思いました。

参考文献: adokoの物理 力学 ケプラーの法則
Wikipedia S-双対
『科学の価値』,ポアンカレ,吉田洋一訳,岩波文庫

投稿日:1118
更新日:1118
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