話題になることも多い「客観性」ですが,今回はポアンカレの著作『科学の価値』に基づいて特に科学の客観性とは何か、に対する回答の一つを紹介していきたいと思います.なお,該当箇所である第三部はル・ロア氏(数学者・哲学者)の著作に対する批判の形をとっているということをあらかじめ断っておきます.というのも,私が科学哲学(のカテゴリなのかすらわかりませんが)に明るくなく,文意の汲み取りや引用が不適切になっている可能性があるからです.
「客観性」という言葉の意味を考えるところから見ていきましょう。
この節の表題が提出している問題、すなわち、科学の客観的価値はどんなものか、という問題にここでとりかかることになった。まず第一に、客観性という言葉はどういう意味に解すべきであるのか。
従って、これが客観性の第一の条件である。すなわち客観的なものは多くの精神に共通のものでなければならず、従って、互いに伝達できるものでなければならない。ところがこの伝達は、あの「言葉」、ル・ロア氏にあれほども疑惑を吹き込むところの言葉によるほかはないのだから、われわれは、「言葉なければ客観性なし」と結論せざるを得ないことになる。
他の人たちの感覚はわれわれにとって永久に閉ざされた世界である。わたしが赤と呼ぶ感覚はわたしの隣人が赤と呼ぶ感覚と同じかどうか、これを確かめる術はなんにもない。
サクランボとヒナゲシがわたしに感覚Aを生じ、隣人には感覚Bを生ずる、とする。また反対に、木の葉がわたしには感覚Bを生じ、隣人には感覚Aを生ずる、と仮定してみる。われわれがこのことについて気がつかないことは明らかである。というのは、感覚Aをわたしは赤、感覚Bを緑と呼び、隣人は感覚Aを緑、感覚Bを赤と言うのだからである。ところが、サクランボやヒナゲシから隣人が受ける感覚に隣人は同じ名前を与え、わたしも同様にするところをみると、サクランボもヒナゲシも同じ感覚を生ずる。
従って、感覚は伝達しえない。というよりは、むしろ、感覚において純粋な性質であるものはいずれも伝達不能であって、決して相通ずることのできないものなのである。ただし、これらの感覚間の関係については事情が同じではない。
こういう見地からすると、客観的なものはすべてあらゆる性質の欠けたものであって、純粋の関係だけにほかならない。
ちなみにgoo辞書で客観的とは「特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」となっています。客観的であるためには感覚の間の関係性を扱えばよい、と言われれば客観的あり方がより具体的で明確になったような気がします。ここでとられた「関係性に注目する」立場は,後の議論でも中心的なものになっています。そして一先ずの結論を得ます。
従って、感覚間の関係だけが客観的価値をもち得るのだ、ということは認めなければならない。
ここで,その後にある予想される反論などの考察は割愛して科学の話に戻りましょう。
科学は、他の言葉で言えば、関係の一組織である。さきほど言ったばかりのことだが、客観性を求めるべきは関係の中においてだけであり、互いに離れ離れになっている、と考えられる個々のものの中に求めることは無益の業なのである。
従って、「科学の客観的価値とは何か」と問うとき、その意味は「科学はものごとの本当の性質を教えてくれるか」というのではない。「科学はものごとの本当の関連を教えてくれるか」ということを意味する。
従って、ある科学的理論が、「熱とは何か」「電気とは何か」、「生命とは何か」といったことをわれわれに教えると称したときには、その理論は初めからだめなことがわかっている。
少々極端に感じられる部分もあります。熱や電気が何であるかに関しては当時と今で描像にまだ大きな変化はないと思われますが、こういうものは今後塗り替えられることがあっても不思議ではないと。その後も考察が続き
要約すると、唯一の客観的な実在は事物の間の関連であって、そこから普遍的調和が生まれるのである。もとより、この関連・この調和は客観的なものであることを失わない。思考力をもつものすべてにとって、共有のものであり、共有のものとなり、また、いつまでも共有であることをやめないだろうからである。
これで、再び地球の回転の問題に立ち戻ることができるようになった。これを考えることによって、同時に、いままで述べてきたことを実例によって明らかにする機会が得られることになる。
ついに地球の回転の問題に戻りました。
絶対空間は存在しない。「地球は自転する」というのと「地球は自転しない」というのと、この二つの相反する命題は、従って、どちらの方がより真であるということはない。運動学的意味において、一方を否定して他方を肯定することは絶対空間の存在を認めることになるのである。
しかし、「地球が自転する」という命題は真の関連を明らかにし、もう一つの「地球は自転しない」という命題はそれを蔽い隠すものだ、とすると、「地球が自転する」という方を物理的にはもう一方の命題よりもいっそう真であると見なすこともできよう。この方が内容が豊富だからである。
これで恒星の日々の外見上の運動、他の天体の日々の運動、また地球が扁平であること、フコ(略)の振り子の回転、旋風の渦動、貿易風その他いろいろなことの説明がついたのであった。プトレマイオスの説によると、これらの現象すべての間には何らの関連がない。コペルニクス説によれば、これらの現象はすべて同一の原因から出てくることになる。地球が自転すると言うのは、これらすべての現象が密接な関係を有することを主張することを意味する。たとえ絶対空間が存在せず、また存在し得ないにしても、このことは現に真であり、また将来も依然として真理たることを失わない。
以上では地球の自転について述べたが、太陽のまわりの公転については何と言うべきだろうか。(略)
プトレマイオスの体系においては、天体の運動を中心力の作用によって説明することができない。従って、天体力学は不可能である。上記すべての現象の間にある密接な関連は天体力学によって明らかにされるが、これらの関係は真の関係なのである。
従って、ガリレイが迫害される原因となった真理は依然として真理たることを失わない。もっとも、この真理は通常の人が考えるのとまったく同じ意味をもっている訳ではなく、その真の意味はずっともっと繊細、もっと深遠、もっと豊富なものなのではあるが。
自転や公転は様々な現象を関連させる考え方であり、今後も変わることがないであろう豊富な価値をもつものであったということですね。そういうことであれば、電流が電子の流れであるとするモデルも、コンデンサーや電池やその他の化学反応をよく説明しているように思われます。数学で言えば補題のようなものかもしれません。それさえ示せば他のことが次々と証明されてしまうのですから。なんにせよ、関係を有するという主張は説得力のある説明になると覚えておこうと思いました。恐らくそれも関係は誰から見ても変わらないからなのでしょう。
最後に科学のための科学の弁護を行い、本書は訳者あとがきを残すところのみとなります。
われわれはあらゆる事実を知ることはできない。よって、知るに値するような事実を選び出さなければならない。トルストイの言うところを信用すると、科学者たちは実際的応用を目的として選択を行えば道理に叶うのに、そうはしないで偶然にまかせて選択を行うのだ、ということになる。科学者たちはこれに反し、ある種の事実により未完成の調和が完成に導かれ、また、非常に多数の他の事実を予見できるからという理由で、その種の事実に対し他の事実に対するよりもさらに関心を注ぐべきものと信じている。もし、彼らが間違っているのならば、また、彼らが暗々裡に事実の間に等級を設けているのが空しい幻想にすぎないのだとするのならば、科学のための科学はあり得ないことになり、従って、科学なるものがそもそも存在しないことになってしまう。わたしに言わしめれば、科学者の行きかたは正しいと思う。たとえば、わたしは上記において天文学的事実の価値がどんなに高いかを示いておいたが、これは何も実際的な応用ができるからではなくて、それらの事実があらゆる事実のうちでもっとも教えるところが多いからなのであった。
科学と芸術によってのみ文明は価値があるのである。「科学のための科学」という標語には人は驚きを示す。しかし、これは人生が困苦だけに過ぎないのに「人生のための人生」というのと同じことなのである。あらゆる快楽は同じ性質のものだ、と信じるのでないかぎり、また、文明の目的は酒を飲むことの好きな連中にアルコールを提供することにある、ということを承認しようとしないかぎり、「幸福のための幸福」という標語も、これまた、「科学のための科学」というのと同じことなのである。
父は医学の教授、従兄弟のレイモン・ポアンカレはフランスの大統領という名士の家に生まれたポアンカレですが、苦労もあったことが窺えます。
あらゆる行動は目的をもっていなければならない。われわれは苦しまなければならず、働かなければならず、観覧席のためには金を払わなければならない。しかし、これは見るためである。自分が見るためでなくとも、少なくとも他の人々がいつかは見るようになるためである。
知りたくとも自らの生涯だけでは辿り着くことのできない謎がポアンカレにもあったのかもしれません。
ものごとについて語るためにわれわれのもちいるすべての語は思想以外のものは表現しない。思想以外のものはすべてまったくの虚無である。従って、思想以外に他のものがあると言うのは意味のない主張なのである。
しかしながら—時間なるものを信用するものにとっては奇妙な矛盾であるが—地質史の示すところによれば、生命は二つの永遠の死の間における短いエピソードにすぎず、このエピソードの中においてさえ、意識された思想は一瞬の間しか続かなかった、今後も続かないだろう、ということになる。思想は長い夜のさなかにある一閃の光にすぎない。
しかし、この一閃の光こそすべてなのである。
ポアンカレのような天才はまさに我々人類にとって一閃の光でした。
関係性を扱うというと、私は詳しくないのですが圏論を思い浮かべます。基本群は位相不変量というだけでなく代表的な関手でもあると思うので、それを考えていた人が関係性を重んじる考えをもっているのは自然なことかもしれません。さらに、ここでは時代や場所が変わっても変わらない客観性が科学の価値として考えられているように思われ、それを宿すことができるのが関係性であるということでした。ならば応用の観点からそのような数学が用いられることが多くなるのでしょうか。科学に応用される数学の概念として関数がありますが、これも定義域の元と値域の元を関係付けるものです。というわけで、圏論や他の関係性の数学が他の科学に応用される展開があったら、ポアンカレは(既に誰もが認める天才だと思いますが)やはり慧眼をもっていたということになるのではないでしょうか。
面白かったので布教活動ができてよかったです。
参考文献:『科学の価値』,ポアンカレ,吉田洋一訳,岩波文庫