前稿までの議論において、「身体」に関する再解釈、あるいは数学行為を前提とした身体理論を構築した。本稿では少し話題を変えて、数学における「正しさ」の観念について、概観的な復習とともに、身体理論との関連を踏まえて述べる。
前稿において「存在」という日常語に潜む多義性をみたが、「正しさ」という日常語についても同様の状況にある。まずもって、「正しさ」という語の再定式を目指すが、その過程において数学における「真偽」の観念の在り方について概観的に復習する。そして、「正しさ」とはどのようなオブジェであって、また「(主観的な) 正しさ」によって「真偽」が判定されるためには、身体にどのような機能が求められるか - という question についても探究を進める。
数学における「正しさ」について語るまえに、そもそも何故日常語において「正しい」という種類の語が可能となったか - という背景について、まず考えたい。前稿以前に確立した「身体理論」の言葉で言い換えるならば、これは「何故私の身体は正しさという概念を獲得したか」という question と受け取られ、したがって探究は「世界と私のあいだの関係」の視点のもと進行する。
私が現象世界と相対するさい、しばしば、現象世界のもつ「尋常ならざる剛性」を顕著に感じる。箱のなかにかくした風船が、いつのまにか消える - ということは起こらない。一昨日も昨日も眺めた星が、今日はどこにもない - ということは起こらない。しかし仮にどこにも見当たらないなら、きっとよほど空が曇っているか、なんにせよそこには「理由」がある。「すべての事象になんらかの理由をみつけうる」と少なくともそのように「学習」可能なほどの「剛性」が、経験的現象世界には確認される。
そのような「剛性」の存在は、私に生じる経験に「大きな制約」を与える。すなわち、箱のなかに風船をかくしたとして、ほかに何の理由もないなら、私の経験するいかなる事象も「箱のなかに風船があること」と全く無矛盾である。それだけでなく、箱に関して経験するすべての事象は「箱のなかに風船があること」を示唆する。そしてこのとき、「箱のなかに風船がある」という命題は「正しい」。
さらに、「箱のなかに風船がある」という命題の否定 (言語的な意味において) は「箱のなかに風船がない」という命題となるが、この二者の「同時の成立」を私は実感することはない。(たとえば箱の内部を知らない状態において、二者の成立を「同時に」予感する (どちらかわからない、という意味で) ことはあるが、これは二者が「同時的に成立」していることを予感しているわけではない。)
ただし注意として、さきの段落における説明はある種の「簡約版」であって、間違った部分を含む - 厳密にいえば、私は「矛盾した命題」について、その成立を空想することは、一定の困難性をもつが、しかしそれ自体は可能である。これは、ある側面においては自らの身体性への挑戦ともとれる。あるいは「真理・無矛盾性」または "feasability の議論" (と私が呼んでいる発想) に関連する事項でもある …… このことについては、以後論考において記述をおこなう。
とにかくこういった方法によって、私の受ける経験には、ある種の「首尾一貫性」が確認できる。そして、その首尾一貫性によって、私は経験を「命題」によって語ることが可能となる。
「正しさ」という語が、ある種の「妥当性」についても指し示すことを補足しておこう。なんらかの「主義」が正しい - とは、一般的にはその主義が充分な「妥当性」を持っている - という意味に解釈される。「ルール」の正しさといったものについても、その「ルール」を課すということに「妥当性」がある - という意味に解釈される。
日常語の範疇における「正しさ」のこの種類の側面は、しばしば「道徳」の観念とも密接に関連する。あるいは「工学」の観点、「理念」の観点とも密接に関連するものである。また「正しい」という語によって、ある種の「標準性を備える」という意味をあらわすこともあるが、これはいずれとも関連しうる側面であるようにおもわれる。
次に、「正しさ」が数学のなかでどのようにあらわれるか、ということについてそのアウトラインを述べる。
数学の実装において、「記号論理」の存在は基本的である。「記号論理」とは、ある種の (a priori には「意味」を伴わない) 言語である - とも解釈できる。記号論理は命題に対して真理値を割り当てるシステムである: ここで真理値とは、(少なくとも a priori には)「正しさ」云々とは「関係のない」ただの記号である。古典論理においては真理値というのはふたつあって、しばしば
したがって、当然我々の既存の直感がまったくはたらかないような公理系というのもいくらでもあるものと推測されるが、たとえば集合論の体系としてしばしば採用される
しかしながら、たとえばこのような集合論においては、少なくとも多くの場合において「日常的な正しさ」から大きく「違反」するような状況は起こらない - さすれば、我々に備わる身体機能のもとで、「真理値」と「正しさ」を関連付けてしまう (身体図式の構築) ことは容易である。むしろ、こういった身体のはたらきによって、しばしば「真理値」と「正しさ」は混乱され、かつ誤解される。
「正しさ」に関するひとつの問題として、次のようなものが挙げられる: (少なくとも a priori には)「直感」と紐付かないような公理系・記号体系から始めたとしても、記号のもつ「剛性」の存在によって、次第に「記号体系」と「印象体系」のあいだの「通信」が実行される。このことによって、「印象空間」には「新たな記号体系の理 (コトワリ)」が書き込まれ、そして「正しさ」が公理系と「同期化」したものに編集されていく。このような現象を「正しさ」の逆輸入とよぶこともできるだろう。これはある意味ではまさに数理世界の一端が身体化されていく、数学行為の重要な側面に他ならない。
紛らわしいことには、このような「正しさ」の逆輸入現象は、「直感を模してつくった公理系」についても同様に起こる。すると、そのような体系に関する数学行為をおこなうことによって、時に「もとの直感」が「記号体系の導く論理」のもとに「編集」されてしまう …… これは、「正しさ」について議論する限りには、非常に注意すべき現象であることをここに指摘する。
ここまでの準備のもとで、「印象システム」たる私の統べる「正しさ」の体系と、「記号システム」たる公理系の統べる「真偽」の体系が区別された。すると、数学が行為として実行可能であるためには、適切な意味で「正しさ」の体系によって「真偽」の体系を説明できなければならない。すなわち、翻訳論的に言い換えるならば、「真偽」の体系が「正しさ」の体系のなかに翻訳できる必要がある。そして、非自明なことには、これは実際に多くの局面において可能である ( ! )。このとき、以下の question は自然なものであろう: この非自明な翻訳現象を可能にする要因はいかなるものであろうか ?
本稿の主題は、まさにこの question への探究にある。以下においてさまざまな段階や場面においてこの問題について調べることをとおして、印象演算機構の在り方や、またその可能性についても研究をすすめたい。
探究を進めるにあたって、私の「身体」が印象に対してどのような処理をおこなっているか、ということについて振り返りながら、実際の「身体機能」についてもここでみていく。すなわち、以下に行うことは「身体」に関する (比較的) 量的な側面に関する調査ともいえる。動作確認も兼ねて、簡単な計算をおこなうときの私の身体のはたらきについて確認を進めていく。
印象の範囲において、このように (あたかも「仮想マシン」を走らせるかの方法によって) tame な計算について、これを実行することができる。
機能性についての確認をおこなうと、私は意識空間にいくつか (数個 ~ 十数個程度) のオブジェを配置することが可能であり、それを短期間のあいだ保持することが可能である。また、これらの保持と同時的に、それらの「個数を数える」等の操作や、「オブジェの移動」等の幾何学的操作をおこなうことも可能である。これは、オブジェの操作に関するある種の量的な側面をあらわしてもいる。(あるいは、最も素朴な「物理エンジン」の実行 - シミュレーションと捉えることもできるだろう。)
しかしながら、アクロバットの労力に比べて、
補足すれば、一定の訓練によって、四則演算を含めたさまざまな algebraic operation の実行は、ある程度「暗算」で実行することも可能であり、通常はそのような方式で計算が実施されているものと思われる。そして、しばしば数学の実際的な場面においては、こうした計算エンジンの存在は、諸議論のさいにも一定の助けとなる。このような記号演算機能が認知機構のなかに備わっていること自体、もちろん非自明なことではあるが、ここでは一旦その存在を指摘するのみに留める。
次に、forall 文、あるいは exists 文に関する処理について、いくつかの例のもとで観察をおこなう。
ここで、初めて印象の「質的」な操作の例をみる。私は、「私を取り巻く状況」として諸構文を「解釈」し、ある種の「共感能力」を用いながら、「どのようにしてこの局面を切り抜けるか」という「戦略的気分」のもと、「やりたいこと」すなわち「指針」について勘案しながら、次の行動を決定した …… そしてこのようなシミュレーション・ゲームの実施によって、結果として先程の述語論理文の真偽を判定するに至った。
さらに分析すれば、ここで、ゲームへの没入のなか、ある種の「価値判断」に関する機能に「訴えかける」ようなかたちで行動決定をおこなったということにも気付くだろう。価値感覚というものは、人類学的にみても「基本的」な、われわれのもつ機能のひとつである - 増していえば、人間以外の動物についても、多くの種について「価値判断」の基本的な機能を所持することが推察可能であり、また一部の種についてはかなり高度なものをもっている。
さきほどおこなった forall あるいは exists 文のゲーム論的解釈は、まさに述語論理の体系を「ゲーム」の領域に「翻訳」することによって、これらの直観的判定を可能とする - というものであった。すなわち、ここからある種の観察として、我々は「印象処理」のもとに「ゲームで遊ぶ」ことが可能である - という事実が導かれる。そしてその「ゲーム」の解き方・遊び方は、われわれの「欲望 (desire)」にはたらきかけるものである - ということにも着目したい。そして、さらにいえばこのような仮想的設定のなかに没入することを可能にする「共感能力」の存在についてもふれておきたい。
実際には、われわれの人類学的認知能力は、forall-exists で単純にコードされるものだけでなく、もう少し多彩な種類のゲームを遊ぶことができることについても補足しておきたい。
さらに踏み込んで、人類学的な意味で基本的な …… われわれに通底する感覚が、どのように数学行為の実際のなかであらわれているか - ということを確認していく。
「代数閉体
ここで、
この戦略のもとでは、ふたつの量を測定することが求められる:
数学の実際においては、人類学的に「基本的な」感覚と対応付けるようなかたちでさまざまな「オブジェの実装」をおこなうことが常である。そして、そのようなかたちでオブジェの実装をおこなっているがゆえに、その (イメージ的な意味での)「描像」を描くことが可能となる。こういった描像のもとで、(あるいは tame な logical computation 等の助けを借りながら)「アプローチ」を「デザイン」する。そして、場面設定のもとでの適切な「議論進行」のもと、最終的に問題の解決を可能とする - というかたちの物語が展開されていた。
ここで、「人類学的に基本的な感覚」というものがいかなるものであるか、ということに関して簡単な説明をおこなう。ヒトの営みに基づいた認知のかたちとして、たとえば私は次のような感覚を知っている:「離す (離れている)」「つなぐ (つながっている)」「つるつる」「集める (凝集している)」「かたい」「はさむ」「囲む」「たわませる (たわんでいる)」「混ぜる」「逃げる」…… このような性質・操作は、ヒトの営みのなかで素朴かつ基本的である。もう少し踏み込めば、「(あるものがあるものに) 憑依している」「(複数の対象が) シンクロしている」「中心 / 周縁」「ランダム化 / 構造化」「(情報を) 読み出す / 描き込む」「(時間経過のもと) 劣化していく」「エネルギーを内在させている」…… といったような性質・操作についても「人類学的な感覚」とみなすことができるだろう。ただし、こういった人類学的な感覚というのは、生活空間における諸体系の存在、あるいはそれらのアップグレード等によっても変更・編集が加えられることには注意したい。
上記のような「生活に密着した述語」とは、私のもつ身体システムが世界現象を「学習」したうえでの結論として獲得した「概念」である …… そして私のもつ印象演算体系は、こういった「人類学的な述語」に対して、非常に効率的かつ意欲的なかたちで処理をおこなう。そのような事情によって、数学行為において基本的に私は、数学的対象に対してこの種の「印象言語」のもとでの解釈をおこなう。そして、「印象世界における物理エンジン」を実行することによって、印象的な結論を得る …… こういった作業を、algebra の計算や知識・スローガンの呼び出しなどを補助としながら実行していく。総括すれば、このようなプロセスにおいて、数学的命題に関する処理は実行されているといえよう。
さきの記述に立ち戻れば、私は数学的推論のさい、重要な道具として「知識」を用いていたことが理解される。もちろん、「知識」という語の指し示す対象は、(印象的に) その有形無形を問わないが、ここでは数学行為において「知識」とはどのようなものか - ということについて簡単な分析をおこないたい。
「有形」の知識とは、まさに私が現象を把握するにおいて「スローガン」の形で表記し得るものであって、これは次のような性質を持つ。
ある意味では、「記述」-系と「立証」-系との対立が、ある知識が「スローガン」的であるかを決める - ともいえよう。また、その記述の簡易さによって「スローガン」は繰り返しの適用が容易となり、その立証の非自明さによってそういった行動に「計算論的価値」が生じる。数学的諸定理の、その「情報のパッケージ」としての側面が、より思想的に「深い」数理領域にアクセスすることを可能とする …… 論証によって定理を発見するというだけでなく、私は「定理によって論証を発見」もする。
対して「無形」の知識とは、「記述」-系 vs.「立証」-系の関係がより親密に同居する「身体知」であるといえるだろう。「有形」の知識が、"記述 vs. 立証" の「乖離」によって、自身を「公理化」させうることに対して、「無形」の知識はより「地に足のついた」「実感的な」印象であるともいえるだろう。「無形」の知識についても、しばしば記号的なかたちで明瞭には記述されないが、しかしながら「印象」の意味で把握の容易なものであるがゆえに、これらも「繰り返し」適用することも可能である。
私の身体には、ここまで分析をおこなったようなかたちで「印象の体系」が刻まれている。人類学的背景のもとに印象領域は構造化され、その情報学的豊富性のもとに「数理」を描き込むことを可能としている。
描き込まれた「数理」のもとに、印象の配置・精察、あるいは複数の印象の干渉具合の計測といった「主観的な実験」をおこなうことによって、記号に関する非自明な事実を得る …… まさにこの構図は、一種のシャーマニズムであるともみることができるだろう。
このようなシャーマニズムが可能となる理由は、まさに「学習」の可能性の担保するものとおなじであって、本質的に不可解なものであると私は認識している。しかしながら、敢えてその理由を挙げるとするならば、以下のようなものとなるだろう。
振り返ればここまでの議論は、「何故私は現象の把握が可能であるのか ?」という問いへの探究に他ならず、それは数理世界に対しても、日常世界に対しても、平行な構図をもっていることが確認できるだろう。「学習」の構造が本質的に「複雑」であり、解析の困難性がそのまま探究の困難性にあらわれる - という意味では、一種の「神託構造」がここに生まれているともいえるだろう。
私のもつ「複雑系」の「創発現象」…… これは一種の「ハード・プロブレム」を連想させる。その「根本的解明」は困難を極めるものと思われるが、しかしながら、「複雑系」の挙動に関する一定の「定性的結論」を得ることは、根本的解明を待たずして可能である。以後の探究においても、こういった「数理的身体」に関する「定性的理論」を構築すること - これは、中心的な課題のひとつとなるだろう。
私が「数学的命題」の「正しさ」を認識することを可能とする理由について、少し別の観点から補足をおこないたい。
次の二つの命題について考える:
この二つの命題は、記号的記述こそ異なれど、結局その「意味するところ」は等しい。このような「変数の取り換え」に関する操作は、論理学の言葉では
たとえば、実数を Dedekind-的 (切断を用いるもの) に定義するにしても、Cauchy-的 (収束列を用いるもの) に定義するにしても、その同値が確立されている状況では、どちらを命題の記述に採用しても「問題はない」。また、それらの定義の詳細が関与しない範囲においては、思念的な意味においても、ふたつの実数の差異は isolate される。
こういった、一定の範囲において「どのような実装をおこなってもその本質は変わらない」という状況は、数学の実際においてはしばしば起こる。このようなことを指して「論理学的可縮性」という語を充てる - すなわち、これはある意味では記号体系のもつ「冗長性」を示しているともいえる。
このような冗長性のもとで命題の本質的挙動が「変わらない」ということによって、私の印象体系においては、こういった「差異」を捨象することが可能となる …… これはある意味では "quotient" の構図とみることもできるだろうか。とにかく、そのような「冗長性」の捨象によっても、私は現象の把握を可能としている - ということについて、ここで指摘をおこないたい。
本稿の最後に、数学的現象・数学的設定を「観察」する - ということについて、ここまでの議論を踏まえたかたちで、簡単な分析をおこないたい。
数理的諸現象について「共感能力」等の機能を用いてこれを把握する - といった構図をさきの議論にて確認したが、まさに数学的対象が目前にあらわれるものでないということから、よりこの種類の精神について重要性の増すこととなる。注意深く、現象・設定のもつ機微に思いを馳せ、情報を読み取っていく …… これはまさしくシャーマニズムの実践であるといえよう。
「理解」のうえでも、あるいは戦術立案のうえでも、こういった「観察」行為は基本的なものとなるが、ここではその実際について、簡単に記述をおこないたい。
このような進行のもと、数理現象に関する「観察」は実行される - 構図自体は、数学行為に限らず、一般の現象把握に通ずるものであり、広くいえば「問題解決に関する一般的理論」の帰結として以上のことは導かれるであろう。
「論理学的可縮性」という単語を先程導入したが、この観点をより「実際的」なレベルにまで推し進めたならば、そうやって最終的に「残る」ものこそが「中心的なアイデア」であるともいえるだろう。
さきほど述べた「観察」の諸ステップにあっても、その目指すべきところは、まさに設定の「中心的部分」を把握することにあって、その意味では「捨象」こそが (逆説的に) 現象把握における「もっとも重要な側面」であるともいえよう。
仔細に惑わされることなく、「そこでなにが起こっているのか」という question に対して、「正面から向きあう」かたちで「対話」をおこなうことにより、私の「理解」は進行し、そして現象を解明することが可能となる。
本稿においては、「正しさ」に関する議論に始まり、「正しさ」を可能にするための背景についての確認をおこなった。また、これを踏まえたかたちで、数学の実際における「観察」行為に関しての記述をおこなった。ある意味ではこれらは、数学行為の範疇における「精神構造」の量的な側面に焦点をあてたともいえる。
次稿以後においては、数学行為における「精神構造」について、あるいはその「質的な側面」について論述を試みたい。また、その過程において、単に「資質」としてのみ解釈された「人間的側面」のいくつかの解体、あるいは再検討をおこないたい。