本稿から、数学行為 - すなわち、ヒトが数学をおこなうということ - と、それにまつわるさまざまのことについて、探求をすすめていく。
しかし探求は、すべて「私」の観点から始まり、そして (原理的には) いかなる方法においても「私」の観点を逸脱することは不可能である。したがって、以降の記述の方法について、これらは意図して「主観的なことば」でおこなわれる。
いま一度、「数学」という対象が、私にとって、どのような性質をもつように感じられるか - ということを振り返っていく。
さきほどの言及について、初等的な例とともに補足をおこなう。
2., 3., 7. において述べたことは、ある意味では、数学の「もっとも極端な二極性」としても捉えられる。すなわち、(roughly speaking,) 次のように述べることができる:
それぞれを敢えて極端にいうなら、以上のように state することができるだろう。一見「矛盾的」なこれらの要請は、しかし、いとも容易く両存することが可能である。この両存について、初等的な例のもとに観察・補足をおこなう。
次のような物理的命題の成否を考えてみよう: 時速 30 km で移動する自動車について、2 時間の経過のもとに進む距離は 60 km である。
この主張について、その妥当性は機械的な計算 (30 km/h × 2 h = 60 km) のもとで確認することが可能である。しかしそれだけでなく、私は「印象」の範疇においても、この命題の「妥当性」を (少なくともある程度) 検証することは可能である。そのプロセスはまさに次のようなものとなる:「時速 30 km」という速さを想像する。そして、その速さで 2 時間動くとき、おおよそ移動できる「相場」のようなものがある - そういったところに心を馳せる。すると、たとえば "100 m 程度しか移動できない" とか "40000 km も移動できてしまった (地球一周 ! )" という事態にはなさそうで、(実生活的経験に沿っていうなら) "他府県に移動する (あるいは例えば、札幌から小樽に移動する) くらいのことはできそうだ" 程度の印象を得る。そのような「帰納的」な方法で、実際に計算をおこなうことなしに、物理的命題の妥当性を (ある程度ではあるが) 検証することが可能となる。
初等的な (かつその評価の正確性についても多くの問題を抱える) 例ではあったが、しかしながら、「根本的な仕組み」自体は共通していることをここで指摘したい。すなわち、ここには「実在性」をもって現れる「世界 (現象の総体)」があり、それは「記号列の操作」によって予言可能なほどの「剛性」を備えるが、しかし私の「身体」は、そのような現象の体系・連続に関してある種の「印象」を抱くことができ、さらに私の身体にはそれらの印象について (印象の範囲において) 演算をおこなう機能がある。そして、(おどろくべきことに、) 印象による演算結果と記号列による計算結果は「合致」する ( ! )。
数学をおこなうさいにおいても同様の構図はあらわれる。しかし、数理世界に呼応する身体感は、(世間的な意味での) 日常的な身体感を伴う必要は必ずしもない …… というところは指摘しておきたい。(もちろん、それらの感覚について、意識的に「日常的な身体感」の語りうる範囲に帰着させる - という努力についても、試みとして重要なことであると私は常々思っている。しかし、当然、それは日常的な身体感 "以外" の身体感覚を排除する理由にはならない。)
日常的な身体感 (位置感覚、大小感覚、形状感覚、形質感覚、あるいは (内的) 物理エンジン ……) や、基本的な数感覚 (1, 2, 3, ... といったオブジェについての感覚) というものは、実際に数学をおこなううえで基本的となる。独自の語法を用いたため補足すると、位置感覚というのはすなわち上下左右というような (大雑把な) 配置に関する感覚のことを指す。形状感覚というのは、(位置感覚とも関連するが、) なにかが「交わっている」とか、なにかが「尖っている」とか、そういった印象のアクセプター (受容器) のことを指す。形質感覚というのは、例えば「硬い」「柔らかい」そういった印象のアクセプターのことを指す。また、物理エンジン的な方法で印象演算をおこなうことも可能である - 熱方程式や波動方程式を「解く」さい、熱や波動の「イメージ」はひとつの (素朴な) 指針となる。
しかし、さらに重要な指摘として、これらに挙げた以外の (素朴な意味でない、抽象的な)「感覚」でありながら、「古典的」な、そして「生活のうちに備える」種類のものが、私には (そしてきっとみなさんにも) 存在する - ということをいいたい。
私は、「意味」「意義」といった、"モノガタリ"-的なオブジェについて、これらを印象として受容できる。また私は、「手続き」「アルゴリズム」といった、"モノガタリ"-的なオブジェについて、これらを印象として受容できる。これは生活のうちに備える機能であり、そして私はしばしば "モノガタリ"-的な印象の演算によって思考し、あるいは生活 (社会行動も含めて ! ) をおこなっている。
さらに補足をおこなえば、前者は物語の質的な側面に焦点をあてたものであり、後者は物語の量的な側面に焦点をあてたものである。そして、これらは言語の使用と関連し、かつ言語の使用によって (少なくともある意味では) 強化される側面がある。そしてどのようなものであるにせよ、日常生活のうちにおいてもこの種類の「抽象的な思考」は無数に出現し、そして無意識的なレベルにおいてこれら「抽象的な印象」の演算をおこない、即時的に行動へ反映するといった芸当すら可能である ( ! )。
すなわちここで指摘したかったことというのは、要約すれば、それほどまでの「高度な」印象演算機構が、ヒトの身体には備わっている - ということである。そしてこの種の印象演算機構は、実際に私が「コンセプト」を取り扱うにあたって、ひとつの基礎をなしている - ということを、ここに明らかにしたい。
次稿においては、「身体感」という key idea のもとに、「学習」「存在」「encoding / decoding」といった現象について、その概観をおこないたい。また探求の過程において、身体というオブジェについて、"数学行為"-的観点のもと改めて再考し、かつ再定式をおこないたい。