前稿においては、数学行為のなかにあらわれる基本的かつ全般的な構造について、その在り方を確認した。そこにおいては、「身体の在り方」が、数学行為にある種の多相性を創出している - といった現象がみられた。本稿においては、「身体の在り方」を中心軸に据えながら、いくつかの基本的な概念について注釈を加えていく。
「存在」という語について、もしかするとこれは一見「カンタン」な単語であって、その意味するところに曖昧さなどないようにおもわれるかもしれない。しかし実際のところをいえば、日常語としての「存在」には、(日常の会話においてはその識別が不要となるような) いくつかの側面・レイヤーが混在している。以下に、素朴な例のもと、そのことを確認する。
すべての問いに対して、これらはある意味では "yes" となるべき (そしてある意味では "no" となりうる) ものである。そして、その "yes" の在り方は、それぞれ少しずつ異なる側面をもつことに着目したい。そのそれぞれの側面は「存在」という単語に異なった意味を与え、またそれらの意味に関する微妙な差異の欠落はしばしば error を増幅させる。したがって、まず「私」にとっての「存在」の在り方について復習をおこない、それによって「存在」という語の用法についてここで再定式をおこなう。
先程述べた多くの例について、それらの対象は「私の印象世界」になんらかの意味で関与している。それは、実物理世界に素粒子のあつまりとして現界しているか否か、あるいは視覚・聴覚のような五感的センサに紐づいているか否か、といった問いよりももう少し根源的なものであって、有り体にいうならば「私」がそれを「どのようにみるか」ということを問うているに他ならない。また「私がそれらを存在するようにおもう」ということについて、少し言い換えるならば、「私はそれらに関する印象を総括しある種の存在として受けとめる」と述べることもできるだろう。
なにかが「存在」するとき、それらはしばしば「私」の操作に対してなんらかの「返答」をもたらす。たとえば、壁についてこれを押すなら、力学的な「反発感」が応答として返される。あるいは、草花を手に取れば、その「香り」が応答として返されることもあるだろう。「私」のなかでこれらの印象の入出力の連続がおこなわれることによって、「私の身体」は「学習」を進行させる。そして、そのような方法によって「私」はなにかを「存在」させることができる。
「存在」とは、まさにこういった印象の入出力の連続を経た「学習」によって形作られるものである - と述べることもできるだろう。そしてこの意味においては、さまざまな抽象概念と同様に、「自然数」などの数学的対象についてもまた、その「存在」を確認することができる。
すなわち以上のことは、私には印象を生成する身体機能が備わっており、さらに、生活のうちに (センサ等を通したさまざまな入出力によって) 印象の連続が形成される。そして私の身体はその印象シークエンスを「学習」することができ、その帰結として、私の内的世界のなかに、さまざまなオブジェの「存在」が確立される - と要約できるだろう。
補足するならば、したがってさまざまなオブジェについて、その「存在」の在り方は "刻一刻と" 変化するものでもある。実際、このような変化は数学行為においても重要なものであり、たとえば「理解」という現象はそのもっとも顕著なあらわれであるとも解釈できるだろう。
またこの観点に立つならば、「数理世界の存在性」についても「一定の回答」を与えることが可能であることにも注意しておきたい。
私は印象の連続について、これらを「学習」する機構を備えている - とさきほど述べたが、ここで「学習」という現象の一般論について再確認をおこないたい。
「学習」現象においてしばしば共通的にあらわれる性質を列挙すれば、概ね以下のようなものである:
生物の脳 (あるいは脳を中心とするであろう生体システム) には、この種類の学習機構が備わっているとされる。ここで、まさにこういったある種の組合せ論的複雑性のもとに、さまざまなエレメントを描き込むことが可能となっている - ということを指摘したい。この種の「描き込み」の存在は、たとえば私が言語を使用できることによって、その一端を確認することができる (すなわち、私の保持する生体システムのなかには言語体系が描き込まれていることが確認できる)。
さきほど「学習」に関してその一般的な様相を確認したが、特にそのなかの「描き込み可能性」について補足をおこないたい。
一般に、ある種の体系 A のなかに体系 B を「描き込むことができる」ということを指して、体系 B は体系 A に翻訳可能である - とよぶことにすれば、さきほどの「学習」に関する一連の指摘は、生体システムが翻訳論的に一定の豊富性を担保していることを示している。
翻訳論的に一定の豊富性を示すようなシステムとして、生体システム以外にも我々はすでに重要なものを知っている - すなわち「記号列」がその例である。多くの情報・体系について、これらは記号のなかにエンコードをおこなうことが可能となり、その実装様式は (比較的)「忠実」な …… 復号可能であり、かつエンコード・デコードによって失われる情報を (実務上問題のない範囲に) 抑えることのできるものである。
この観点のもとでは、数学的な概念の多くについて、これらが生体システムのなかにも、あるいは記号システムのなかにも共通して描き込むことの可能な、すなわち相互に翻訳可能な内容であることが理解される。以上の状況は、我々に「通信」の論理を想起させる。以下に「通信」に関する一般的な状況を記述し、また数学行為にあらわれる通信論的な側面を明らかにする。
「通信」とは、その概略をいえば次のようなものとなる:
「通信」の哲学に基付くならば、数学行為の一端は、まさに次のように解釈できるだろう:
この観点においては、まさに数学行為の実践において、次のような課題が中心的なものとなるだろう: "より「深い」部分の情報にアクセスするためには、私はどのようなことを為せばよいだろうか ?". この question についても、本論考群において取り扱うところである。そして、通信の過程においてやりとりされる内容 - 印象として凝縮した "Point of View" - について、これを「コンセプト」とよぶことは充分妥当であろう。
通信の論理において、あくまでも情報を「encoding / decoding」のプロセスを介してやりとりする関係上、どうしても「溢れ落ちる」情報 ("truncate" される) が存在する。この種類の不定性について、「通信論的不定性」という語でこれをあらわす。このとき、通信の実践においては、まさに「通信論的不定性」の "絶対値" を抑えることが中心的な課題となる。
日常的な範囲においても、「通信論的不定性」が生じることによって (会話に生じた誤解や、聴き取りちがい、忘却、エンコードの不充分 ……)、さまざまな問題が発生しうる。したがって、「通信」を忠実・堅牢なものにしようという試みは、日常的な範囲においても切実なものであることは理解されるだろう。
こうした「通信論的齟齬」を回避するためのひとつの手段として、「検算」を導入する - というものが挙げられる。これはすなわち、通信によって (弱い形で) 共有された双方のオブジェについて、これらを「同じ方法で操作」することにより「同じ結果を得る」かどうかを確認する - という手法である。(追加のコミュニケーションを伴った) さまざまな「検算」の実施によって、「通信」によって複製されたふたつのデータを「同期化」し、結果として通信の信頼性を高めることが可能となる。
さて、ここで通信論的観点のもとにおいて、数学行為の remarkable な特徴を確認したい。というのは、まさに数学行為において、通信の「同期化」は原理的なレベルで保証されている。すなわち、数学というオブジェが (原理的には) 記号システムにすべてエンコードすることが可能であったということから、まさに「証明を (すべて) 書き下す」という「検算」方法が与えられている。したがって、健全な数学的通信のもとでは、(記号論的な意味における)「成否」を保ったまま、コミュニケーションを図ることが可能となる ( ! )。
このことは、対記号の通信のみならず、対人的な通信においても、数学的対象をその内容とする限り可能となるものであることは補足したい。また、別の補足として、対人的な通信においては (しかしながら) 実際には、そういった記号論的検算をおこなうではなく、主には「印象」の範囲内でその同期をおこなう - ということにもふれておきたい。
ここまでの議論を通して、身体のもつ機能と、それに付随した数学行為のいくつかの側面について観察した。この観察のもとに、改めて (数学行為をおこなうにあたっての)「身体」について、それがいかなるものであるのか - ということを考えたい。
数学行為をある種の「通信」としてみたさい、そこにおける「身体」とは、「通信」を実際におこなう「メカニクス」のことであると理解されるだろう。その要素のいくつかを列挙するならば、次のようなものとなるだろう:
こういった「身体のキット」を用いながら、実際の場面において数学行為は実行される。そして、通信をとおして、私のなかの風景は緩やかに変化し、そのなかでいくつかの「コンセプト」の存在を許し、やがて受容し、そして新たな段階を構成する。こういった作業の連続として、数学という行為を捉えることができるだろう。
「身体」とは、まさにこれらの作業を可能とする私に備わった機能群であり、そしてその基礎の多くは、既に備わっている「古典的な印象演算機能」の自然な発展として得ることのできるものである ( ! )。
本稿においては、「身体」の在り方について一定の結論を得た。次稿においては、少し話題を変えて、数学における「正しさ」に関する議論をおこないたい。その内容に関しては、(既に展開されているであろう) 数理哲学の深い部分に立ち入ることは予定せず、その意味では表面的なものとなるが、本稿までに確立した「身体に関する理論」をもとに概観できればと思う。