ぞうのたまごはおいしいぞう。ぞうのたまごはおいしいぞう。ぞうのたまごはおいしいぞう。ぞうのたまごはおいしいぞう。 …………ハッ!? う,うーん,なにかにうなされていたような…… 夏バテかな.UDA です.今日は像の話をします.……え? 象? 違いますよ,ちゃんと人偏をつけてください!(現実逃避)
Twitter で「順像法」「逆像法」というワードをまた見かけたのですが,私はこれらの俗称が嫌いです.別名として「順手流」「ファクシミリの原理」「逆手流」と,色々あるみたいです.受験数学界隈を中心に独自に拡がったものと思われ,高校の数学の教科書に出てくるような正式な用語ではありません.教科書に出ない仲間としてはロルの定理など,また正式でない用語の方もバウムクーヘン積分などの例が(いくらでも)挙げられますが,これらも嫌いという訳ではないです.では,なぜ順像法・逆像法を嫌っているかというと,名前が本質を捉えていないからです.きっちりとした数学用語として「像」と「逆像」があるのにそれらとの関係性があまりに紛らわしいのも問題です.いくつか解説を読むと,何を以て「順」「逆」と呼び分けているかは,まぁ,気持ちは分からないでもありません.しかしながら,命名の気持ちを飲み込んだとしても,順像法・逆像法の教義として語られる説明の多くは教育上有害な可能性すらあると感じています.こうした複数の懸念があって,どうにも好きになれない訳です.滅びてくれ.
さて,像は順像法とも逆像法とも大いに関係があり,本記事では順像法も逆像法もただの像の式変形だという話をしていきます.逆像法でも扱うのは像の方です.典型的な逆像法で逆像はむしろ使いません.ある程度証明の類型化を試みるにあたり,本記事では後半以降が大学数学の知識を多少仮定した内容となっています.順像法は必要条件の,逆像法は十分条件の論証だと捉えると傾向を類型化しやすそうだという話も最後に少しだけします.
ここでは代表的な軌跡の問題として以下を題材に考えます:
順像法というのは,変数の一部を固定して残りの変数を動かすことで点が動く範囲を求める証明パターンのことを指すようです.なんらかの対応関係に関して単に「順」の向きの論証を順像法と呼ぶような説明もあります.変数の間の関係式(関数)
とおく.まず,
後の証明と合わせる都合に過ぎないのですが,
必要性だけの証明になってしまっており,十分性がしっかりと言及されていないため,この証明は不完全です.順像法の教義のとおりにパラメータ
次は逆像法です.逆像法は,軌跡の点を与えるパラメータが存在するための条件を考察することで軌跡を求める証明パターンを指すようです.変数の間の関係式
が成り立つような実数
今度は十分性だけ言及して,必要性の方が足りていない不完全な証明です.わざとらしいので,逆像法に詳しい人が見たら「いや証明の欠け方に悪意がある!」と怒られそうです.でも,ちょっとだけ冷静に考えてくださいね.これは実は,逆像法の教義のとおりに「条件」を求めるマインドで書いた証明という想定です.条件条件,と思って書き出し始めたものの,「すればよい」連発症候群を併発し,十分条件だけの主張になってしまって片手落ちというシナリオです.時間がなかったり焦ったりしているときに,こういう勘違い&片手落ちミスをやらかさない自信,ありますか?
必要性と十分性の区別は一大難関トピックです……(え,そうなのぉ?🥺)まぁ,不慣れな内はどの向きで論証中か迷子になりがちというのが定説です.上の証明も,同値や必要十分と言い換えるだけで正しくなるんですが,果たして意識できる高校生はどれくらいいるでしょう? 私が少し検索した範囲だけでも,「逆像法で証明できる!」と言いつつ「すればよい」のような危うい語彙に走る人がそれなりに見受けられました.教義のとおりに進めて初学者が陥りやすい罠があるとするなら,それはある種の構造的欠陥に思われます.証明手法を伝える人々が,「条件」や「すればよい」の表現でサボることなく常に必要十分性を強調してくれるならいいですが,聞きかじっただけの人がこの本質を見落とす可能性は十二分にあります.
順像法も逆像法も,証明パターンの説明を述べそのとおりに証明を進めてみて論証が不足してしまう例を見てきました.教義自体をうまく定義し直せば防げるかもしれませんが,その問題はいったん脇に置いておきましょう.
ここからは「写像による像」の概念を用いて話を整理していきます.当たり前ですが,点
集合
と定義し,
(特に高校以前の数学では)値域という用語が使われることもあります.しかし,写像
ところで,和集合の定義はご存知でしょうか? 和集合は実は「存在量化」と対応しています(定義そのものです).写像による像も和集合を使って書き直すことができます.
右辺は,
像はしばしば informal に
先に逆像法相当の証明を書き直しておきます.定義から直ちに明らかなように,これは本当にただの「像」です.
写像
である.像の定義より,
流石に必要条件と十分条件を分けて証明するほどでもないので同値変形を連ねました.ここでの存在条件って像の定義そのものなんですよ.わざわざ名前をつけるような手法なんですかね.像です.
さて,次は順像法の証明です.さっき見た和集合による書き換えを使います.
写像
ここで,各実数
だいぶポイントが見えてきたので整理しておきましょう.
どの変数を動かすとか固定するとかは一切述べなかったですが本質的には同じ方針です.和集合による等式変形に押し込められています.像の定義をバラして和の順番(つまり存在量化の順番)を入れ替えたところが,「変数をまず固定する」証明に対応します.そして順番を入れ替えた変数のスコープでは,別の切り口の写像による像が出てきました.固定する・動かす変数の見方を変えたんですから写像の形は変わりますよね.まぁ,ファクシミリの原理とか呼ばれる訳です.この名前は分からんでもないです.なお,順像法とファクシミリの原理が異なるのか同一なのかも諸説あります.人によって言うことが割と違います.
もう一つポイントとして,先の誤った証明では変数が多く依存関係の迷子に陥っていました.具体的には,
二次元平面上を点
二次関数の値域は今回グラフを使って処理したことにしました.値域に関しては表現に気をつけないと,十分性への言及が不足し得るので注意が必要です.
正直,こうも「動かす」を連発してしまうと,簡素に分かりやすい証明とはあまり思えません.せっかく明快だった変数の間の関係性が,「動かす」証明ではまたどこか不明瞭な感じになってしまいます.高校数学範囲内に限ると読みやすい証明にするには工夫が必要ですね.日本語の表現で苦労するぐらいなら,必要条件と十分条件に分けて論じる方が手っ取り早く確実に読みやすくなると思いますよ.
順像法も逆像法も結局のところただの像の式変形だというのを見ました.それぞれの教義は初手で何を考えるべきかに焦点を当てた説明が多いです.私は軌跡や値域の問題は初手だけでなくてむしろ途中で処理すべき逆の論証こそ重要だと思っており,この観点での意見も述べておきます.
主観も入りますが,必要条件と十分条件のどちらで攻めるか(証明を書き出しやすいか)という整理をしてみます.当然ですが,内包表記の中の存在条件からスタートして十分条件や必要条件の議論をすれば,集合は一般には小さくなったり大きくなったりします.順像法はパラメータを取り替えるなどして式変形していくため,必要条件の方が導出しやすいことが多いです.逆に,逆像法は存在条件を考察するため,存在性を導くために強い条件を仮定しようという動機が働きやすいです.先の誤った証明はそれぞれ必要条件と十分条件だけを示した形で,包含関係が片方ずつしか出ていませんでした.この観点で区別すると,必要条件を連鎖するか十分条件を連鎖するかで結論しやすい包含関係が逆になっています.包含関係を両方示すことで等号が成り立つため,これらは実は相補的な関係を持ちます.
(この節の主張を補強するためにはもう少し非自明な軌跡の問題を題材に扱う方が良いのですが,気力が尽きたので日を改めます.)
高校数学レベルで考えるとそうなりがちだという意見は理解できます.そもそも,十分性を見落としがちというのは軌跡の問題が顕著なだけで軌跡に限らないことです.解の存在性に着目することで問題が解決するのはたいてい二次方程式の解の存在に帰着させる場合です(つまりそこまで辿り着きさえすれば同値変形しやすい訳です).存在性を扱うのが難しい問題は高校数学レベルの知識では「(値域を直接求める)順像法」で解くのが標準的なだけで,無理やりやれば「(解の存在を先に論じる)逆像法」が可能な場合も実はあるのです.こういう場合,厄介な十分条件の議論をするしかなくなります.(ここまで書くとどんな問題かなんとなく想像がつくんじゃないですか?)
「和集合」「写像」「像」などの大学以降の数学の知識を利用しましたが,これはあくまで証明の論理的な構造を整理するための試みであり,高校数学の範囲内で書くような実際の証明とは乖離があります.しかし,順像法も逆像法も結局は像の定義を同値変形していく証明を異なる視点で見ているに過ぎないという点は十分説明できたと思います.像ではない順像法や逆像法の証明がこの世にあるなら是非ともお目にかかりたいです.はじめに挙げた誤証明はかなり恣意的に作ったもので,必要性・十分性の議論しやすさも主観による部分が大きいですから,そこは反論の余地があると思います.ただ,順像法・逆像法の教義は初手で何をすべきかに焦点を当てています.証明の導入部分をパターン化することで手を動かしやすくなるという効率化のメリットこそがきっとこの用語が持て囃されている理由なのでしょう.しかしながら,軌跡の問題でより本質的に重要なのは,むしろ証明後半に入ってからの逆向きの論証です.前半の様式に拘って後半で本質的な同値性(逆)の検証が疎かになっては本末転倒です.順像法も逆像法も「正しい証明手法」と認識されて名前だけが一人歩きすると,そこを疎かにした不正確な証明を是認する流れが初学者の間で出来てしまうのではという懸念があります.
誤解を招かないよう立場を明確にしておくと,私にとって図形・軌跡の問題は大好きな部類です.だからこそ,順像法だの逆像法だのの本質をついていない名前が嫌いです.順像法も逆像法も数ある証明パターンのうちの一つとして認識し,それで論理的に不足のない正確な証明が書けるようになるのであれば全く問題はないと思います.ところが,「軌跡の問題の解答例」と称して同値性の検証が疎かな論証まがいのものがインターネット上に出回っているというのが悲しい実情です.そして,順像法も逆像法も,単体ではこの現状を打破する銀の弾丸とまでは言えません.(二つセットにすれば,あくまで傾向としては必要十分両方揃えやすくなり,幾分かマシになるはずですが.実際には誰もそんなことしようともしないでしょう.)
最後に.「こじつけが過ぎるぞ! これはもっと便利な手法なんだ!」と思った擁護派の方もいらっしゃるかもしれません.もちろん,自然言語による数学の証明にはもっと自由度がありますから,必ずしもなんらかのルールに拘って証明を書かなければいけない訳ではありません.しかし,順像法も逆像法も教義が曖昧過ぎるため,ある程度は類型化(≒こじつけ)を試みないことには是非の議論もできないというのが正直な気持ちです.有益性を主張される方は是非とも,順像法・逆像法かくあるべしという教義を定義し,証明パターンを厳格に類型化し,ご教授ください.