本記事(シリーズ)は,筆者による独自解釈が強めの記事です.参考文献を挙げるべしという指摘はごもっともですが,お応えできません.小説か随筆のようなものとしてお読みください.
また,筆者は非常に怠惰な人間であり,これまでに始めたブログ等は数知れず,しかし,今に至るまで続いているものは一つもありません.つまり,本シリーズはいつ終わるかわかりません.
以上のことをご理解いただいたうえでお読みください.
二つのクイズから始めよう.まずは一つ目.
フィボナッチは何年頃(あるいは何世紀頃),どこの国の人物か.
フィボナッチ(Fibonacci)は,フィボナッチ数列でよく知られている数学者である.おそらくこの記事を読んでいる全員が,その名前を知っているだろう.一方で,フィボナッチの数学史上の貢献については,よく知られていないように思う.今回の記事では,そこを掘り下げていきたい.
といっても,まずは先ほどのクイズの答え合わせからしよう.フィボナッチは,$1170$年頃から$1250$年頃に生きていた,イタリアの人物である.[1]
では次のクイズだ.
ルネサンスとは何を指し,何世紀頃に起きた出来事か.
ルネサンスの語源は「再生」や「復興」を意味するフランス語である.そこで再生,復興させるものは,ギリシア・ローマの文化や芸術だ.
ルネサンスを象徴する人物と言えば,レオナルド・ダ・ヴィンチであろう.[2]彼は$1500$年頃の人物であるが,「ルネサンスの集大成のような人物」だと覚えておこう.そう覚えていれば,ルネサンスの終わりが$16$世紀頃だとわかる.一方,ルネサンス初期の代表的人物と言えば『神曲』を執筆したダンテであり,時代としては$14$世紀前半である.
従って先ほどのクイズの答えを教科書的に記すならば,ルネサンスは「ギリシア・ローマ時代の文化や芸術を復興させようという文化的運動であり,$14 \sim 16$世紀頃のこと」となる.
ここまで読み進めている読者は,大きく三つに分けられるだろう.
第一に,「ふーん」と読んでいる層.
第二に,フィボナッチとルネサンスの時代違うやん,とツッコミを入れた層.
第三に,$12$世紀ルネサンスの話かな,と先読みをしている層.
全ての読者に対して,まず断っておきたい.
そもそもこの記事の読者層は,数学に関心の強い人たちである.だから私も,細かい用語の解説や位置づけをしたいわけではない.フィボナッチを歴史的にきちんと位置付けるなら,$12$世紀ルネサンス(より正確には大翻訳時代)だろうが,私が強調したいのはそこではない.
一言でこの記事の要点を言うなら,「フィボナッチが活躍した時代は,数学史から見ると『空白の時代』の終わり頃」ということだ.
「空白の時代」とはどういうことか?これを説明するために,試しに,読者が思いつく限り数学者を挙げてみてほしい.
$5$秒でもいいから,実際に考えてもらいたい.
思いつく限り数学者を挙げよ.
ここで名前が出てきた数学者のほとんどが,紀元前の人物か,$16$世紀以降の人物ではないだろうか.
アルキメデス,ピタゴラス,ユークリッドなどは紀元前の著名な数学者だ.一方,フェルマー,ニュートン,オイラー,ガウス,リーマンなどは$16$世紀以降の人物である.
紀元前と$16$世紀と言えば,$1500$年のタイムラグがある.この間に活躍した数学者を,読者諸君は果たして何人挙げられるだろうか.
フィボナッチから遠ざかってしまうが,紀元前と$16$世紀の間に活躍した数学者を挙げてみよう.
「代数学の父」とも呼ばれるディオファントスは,$3$世紀の人物である.
マニアックだが,祖沖之が出てくる人もいるかもしれない.彼は$5$世紀頃に活躍した中国の数学者で,円周率を$\pi \approx \dfrac{355}{133}$と計算した人物である.[3]
$7$世紀頃のインドの数学者ブラーマグプタも有名だ.彼はゼロを数として明確に扱おうとした重要な数学者であり,「インドでゼロが発明された」の由縁は彼にあると言っていいだろう.[4]
$1500$年間で最重要の人物は,$9$世紀のアッバース朝(現イラク)で活躍したイスラム数学者アル=フワーリズミーではないだろうか.彼は代数学の発展に貢献した人物で,彼の名前(al-Khwarizmi)がアルゴリズム(algorism)の語源となったことや,彼の著作アル=ジャブル(Al-Jabr)がalgebraの語源となったことはよく知られている.[5]
と,何人か挙げてみたところで,ルネサンスの話に戻ろう.
改めてルネサンスは,$14 \sim 16$世紀頃に行われた,ギリシア・ローマ時代の文化や芸術を復興させようという文化的運動である.ルネサンスと言えば芸術面がよく強調されるが,火薬・羅針盤・活版印刷のような発明もあれば,コペルニクス,ガリレイ,ジローラモに代表されるような,学問の発達した時代でもあった.
しかし先ほど書いたように,ヨーロッパでは学問が$1500$年近く,ほぼ停滞していた.このタイムラグは長すぎやしないか.
いや,正確に言えば古代ローマの滅亡が$4$世紀頃でルネサンスの始まりが$14$世紀頃だから,$1000$年程度かもしれない.が,それにしたって相当だ.ヨーロッパは$1000$年もの間,何をしていたのだろうか.
ということで,ヨーロッパ史の概略を書こう.なお,ここから先の記述は,凄まじく単純化して書いている.疑問に思ったことがあれば,まともな文献にあたることを推奨しておく.
まず古代ギリシア・ローマの時代が終わるのは,紀元後$4$世紀頃のことである.[6]
当時,地球規模で寒冷化したため,寒冷地域(北部)に住んでいた人は南部へと移り住んでいった.ヨーロッパにおけるこの現象がゲルマン民族の大移動であり,この結果,ローマ帝国は衰退へと向かっていく.[7]
最盛期のローマの版図は,今の国名で言えば,西はスペイン・ポルトガルから東はイラクまで,北はイギリスやフランスを,南は北アフリカの海沿い全てを手中に収めていた.ところがゲルマン民族がそうした地域に流れ込み,その広大な領域の支配は困難となった.
ローマは$395$年に東西分裂し,西ローマは$476$年に滅亡する.東ローマ(ビザンツ帝国)はバルカン半島から小アジアくらいの領域であり(現国名でギリシャとトルコくらいの領域),今回の話からは少し逸れるので割愛する.[8]
西ローマが滅んでから,ヨーロッパはどうなったか.
$5 \sim 6$世紀にかけては,ゲルマン民族による小国家が乱立し,それらの小国家の中でフランク王国が頭角を現していく.
$7$世紀には,(ヨーロッパではないが)世界史的大事件が起きる.イスラームの誕生だ.
イスラームはアラビア半島でムハンマドによって始まった宗教であるが,その後のイスラーム世界の広がりは急速である.$630$年頃にはアラビア半島の一部で細々とやっていたイスラーム社会が,北アフリカを西へ西へと進み,$711$年にはイベリア半島(現スペイン)を奪取すると言えば,そのスピード感が伝わるだろうか.[9]
こうした中で,西ローマの残党勢力は,カールの戴冠($800$年,フランク王国とローマ=カトリック教会が結び付く出来事)やらオットー1世の戴冠($962$年,神聖ローマ帝国の創出)やらで建て直しを図る.[10]
そうこうしている内に,$9 \sim 11$世紀,民族の大移動が再来する.
今度はデーン人やノルマン人である.彼らは(正確ではないが)デンマークでノルウェーの辺りを本拠地としていた.彼らは海賊行為を各地で働き,ヨーロッパは再び荒れる時代となった.
なお,そうしたノルマン人の移動の一つの帰結として,$1066$年,ノルマン・コンクエスト(ノルマン人によるイギリスの征服)があったことは付言しておきたい.
そうしたヨーロッパのゴタゴタがひと段落すると,ヨーロッパ(=キリスト教社会)はイスラーム社会に対決を挑んだ.$12 \sim 13$世紀の間,キリスト教社会から何度もイスラム教社会へと十字軍が送られることになる.[11]
ここまでが非常に大雑把なヨーロッパ史である.ヨーロッパが$1000$年間,何をしていたのか?その答えを一言で表すならば,「古代ローマの滅亡以後,ヨーロッパはひたすら外圧に苛まれ続けた」と言えるだろう.[12]そんな状況では,飯のタネにもならない数学が成熟することは,難しかったわけだ.
フィボナッチの時代,つまり$12 \sim 13$世紀は,ようやくヨーロッパが落ち着いてきた時代である.落ち着いたと書いたものの,平和だったわけではない.
北はまだヴァイキング(海賊)が健在で,西(イベリア半島)はレコンキスタ[13]の真っただ中であり,東(中東地域)ではイスラーム社会と対立し,十字軍を派遣している.ヨーロッパの内部を見ても,英仏の派遣争い[14]や,ローマ教皇と神聖ローマ帝国の権力闘争が起きている[15].ついでに言えば,$13$世紀になればあのモンゴル帝国が急成長の末ヨーロッパにも進出してくるし[16],$14$世紀にはペストが蔓延するわけだから,平和には程遠い.
それでも,ゲルマン民族やイスラーム社会のような強い外圧はなくなっていた.時代が落ち着けば,交易が盛んになり,外の世界に目を向ける余裕が生まれてくる.
ヨーロッパの「外」と言えば,西は大西洋,北は不毛の地である.自ずと目が向くのは南と東であり,それはつまりイスラーム社会である.
世界史を勉強したことがある人は,イスラーム国家が複雑怪奇に分裂していくことを知っているだろう.イスラーム社会は(現代でもスンナ派とシーア派で戦闘を繰り返しているように)決して一枚岩ではない.それでも,ヨーロッパ社会ほどの強い外圧がなかったため,ある程度文化も成熟していった.
非常に簡略化した表現をすれば,古代ギリシア・ローマの文化のある程度を,イスラーム社会が引き継いだとも言える.先ほど,アル=フワーリズミーが重要だといったのも,これが理由である.
古代ギリシア・ローマが発展させた数学は,紆余曲折の末イスラーム社会に流れ[17],そこにまたインドの「ゼロの概念」なども取り入れて,成熟していった(これがアラビア数学である).
こうしてできたイスラームの優れた学問を,$12$世紀のヨーロッパ人が会得しよう(取り戻そう)と思うのは自然であり,そうした活動のことを$12$世紀ルネサンス(あるいは大翻訳時代)と呼ぶ.
ようやくフィボナッチにたどり着いた.
フィボナッチを端的に紹介すれば,アラビア数学を初めてヨーロッパに紹介した人物だと言える.その著書『計算の書』[18]は,当時のローマ数字を基本としていたヨーロッパの数学を飛躍的に発展させる契機とも言える,非常に重要な著作だ.
もちろんフィボナッチはただの翻訳家ではなく,数学者としても優れている.あの神聖ローマ皇帝フリードリヒ$2$世に著作『平方の書』を献呈していると書けば[19],その実力が少しでも伝わるだろうか.
また,フィボナッチ以降の数学者を考えてみても,フィボナッチの特異性がわかる.フィボナッチ以降のヨーロッパの著名な数学者と言えば,たとえば「会計学の父」と呼ばれるパチョーリ[20],$3$次方程式の解の公式で有名なタルタリアやカルダノが挙げられるが,彼らはフィボナッチの死後$200$年以上経過してから現れた.先ほどからフィボナッチを「空白の時代の数学者」と呼び続けているのは,かっこつけたいからではない(二重の意味で).実際にそう呼ぶに値する,当代では唯一無二の数学者だからである.
フィボナッチが優れたアラビア数学をヨーロッパ持ち込んだものの,それに続く数学者はいなかった.当時の事情を考えれば,これも不思議なことではない.
ヨーロッパ最古の総合大学であるボローニャ大学(伊)の創立が$11$世紀.それに続いて,パリ大学(仏),オックスフォード大学(英),サレルノ大学(伊)などが創立していくわけだが[21],当時の主要な学問と言えば,神学・医学・法学である.大学で自然科学が本格的に扱われ始めるのが$14$世紀頃だから,$12 \sim 13$世紀のフィボナッチの後に数学者が続かなかったのも無理はない.
もっと言えば,科学者としてよく知られる人物が出てくるのは$16$世紀であり(例えばコペルニクスやケプラー),いわゆる「科学革命」が起きるのは$17$世紀である(例えばニュートン).フィボナッチは「早すぎた」という他ないだろう.
冒頭で,ルネサンスは,ダンテに始まりダ・ヴィンチに集約されると書いた.
世界史上の傑作とも呼ばれるダンテの『神曲』は,壮絶な旅を綴った詩である.ダンテから始まったその旅路は,$200$年の時を,数多の名士を経て,人類史上類を見ない天才であるダ・ヴィンチへと流れついた.
しかし数学の世界では,孤高の天才フィボナッチが,一人でその基礎を据え,次の天才をひたすら待ったと言えよう(誇張した表現ではある).
おわりに.フィボナッチが活躍したイタリア・ピサは,ガリレイが誕生する地でもある.ときに「天文学の父」,さらには「近代科学の父」とまで呼ばれるガリレイが,異端であると有罪判決を受けるのも,イタリア(ローマ)である.
「すべての道はローマに通ず」とまで言われた古代最強帝国の中心地であり,$12$世紀ルネサンス(大翻訳時代)の中心地ともなった.ヨーロッパで最古の総合大学も創立した,中世までのヨーロッパ最先進地域,イタリア.
ところが$15$世紀頃になると,イタリアは,トップの座を他に譲ってしまう.そして現代でも,G7のメンバーでこそあれ,経済は低迷している.
イタリアの光と影には,常にキリスト教が見え隠れしており,私は何となくそこに宗教の恐ろしさを感じてしまう.
最後に,覚えておいてほしいことをまとめておく.