序文
数学、特に代数学においてはしばしば「自由」という概念が登場します。学部の早いうちに触れるものとしては自由加群が、プログラミングをする方などは自由モノイドや自由群に触れたことがあるかもしれません。この「自由な」存在たちは、各理論において強力な性質を備えているために、必ずと言っていいほどどこかのタイミングで紹介されるのですが、各論での定義を見てもいまいちよくわからないというか、記述としてふわっとしています。加群のテンソル積の普遍性(証明内に自由加群が登場する)などは、普遍性という概念からして圏論的な視点がないとかなり要点が掴みづらいことも相まって、なんだか狐につままれたような感覚を覚えた人もいるかと思います。少なくとも学部生時代の私がそうでした。
本稿ではそのような「自由」という概念の特徴づけについて考察していきます。まずいくつかの実例を見ながら、自由という概念を特徴づける普遍性について話し、さらに圏論的な定義付けとして自由関手を紹介します。また、逆にふつう自由関手とは呼ばない例を挙げて、なぜそう呼ばれないかを考察します。
定義付け
「自由な」ものの例
様々な「自由な」もの(以下自由対象と呼ぶ)のうち、簡潔な定義の獲得に最も成功しているのは自由加群でしょう。
自由加群
(可換)環上の₋加群について、が1次独立な生成系を持つとき、は自由₋加群であるといい、を自由基底という。すなわち、について
が成り立つとき、は自由₋加群であるという。
加群の直和が定義されているならば、が自由₋加群であることは
が成り立つこととも書けます。右辺で表される加群はとも書きます。
ほかに簡潔な例を挙げるとするならば自由モノイドでしょう。
自由モノイド
集合に対して、の要素の有限列全体の集合をとする。このとき、および列の連結によって定まるモノイドを上の自由モノイドと言う。
プログラミング的な言い方をすると、の要素のリストとその結合演算はモノイドになり、これが上の自由モノイドとなります。定義としては簡明ですが、何をもって自由と言っているのか、というのは見えづらいかもしれません。
代数的な定義から普遍的な定義へ
自由対象、特に集合から自由に生成されるようなものを定義するときは、「から他の条件を課さずに生成される」だとか、それに類する表現がよく用いられます。具体的な構成として実際その通りなのですが、自由対象の性質を調べたり他の命題に使用したりするに際してはあまり便利ではありません。幸いにも自由対象には、ほぼそのために用意されると言っても過言ではない、ある強力な性質が存在します。再び₋加群の例で紹介します。
自由₋加群の普遍性
を集合、を₋加群とする。任意に取ったの要素の族に対して、を満たす加群の準同型がただ1つ定まる。
自由モノイドや自由群などに対しても同様の性質が成り立ちます。特に集合上の自由対象について、この普遍性を持つものを逆に自由対象として特徴づけることができます。
集合上の自由対象
集合上の自由対象とは、(存在するならば)今考えている数学的構造を持ったもので、以下で表される性質を持っているものである:
- 普遍性
- 全てのに対してあるが存在し、任意の(今考えている)構造との要素の族に対して、が成り立つ準同型(あるいはモルフィズム)がただ1つ存在する。
この定義は、今考えている数学的構造が「底集合+演算や条件」という構成であることを暗黙に課していることに注意してください。そうでない場合、例えば「の要素の族」という言葉が何を指しているのか自明ではなくなってしまいます(底集合が1つしかないなら、当然その内部にしか要素は存在しません)。
また、この定義では集合に対してしか自由対象を構成できません。例えば「群上の自由アーベル群」といった概念には対応できていません。次節では、普遍性をより広範な概念へと書き直して「自由」の定式化を行います。
圏論的な記述
普遍性と言えば圏論です。ここから圏論的な記述を用いて定式化を行います。圏そのものについてはお手元の
Mac Lane
や
Leinster
、あるいは
alg-dさんの圏論のページ
を参考にしてください。
何か数学的な構造を考える時、先ほどの普遍性による自由対象の定義が成立するためには、いくつか暗黙の前提が存在していました。
- その構造は「底集合+演算やそれらが満たす条件」という構成になっている。
- その構造の準同型(あるいはモルフィズム)は、「底集合の間の写像+満たすべき条件」という構成になっている。
特に代数的な構造はだいたいこの条件を満たしているためあんまり気にする必要はありませんでしたが、もう少し明示的にこれらの条件を書くことにしましょう。上の2つの条件を満たす数学的構造について、構造を底集合に、準同型を写像に写すという変換は、圏論的には関手として書けます。(もちろん今考えている構造の全体が圏をなさなければ定義できないのですが、準同型まで定義できていて圏にならないとは考えづらいため圏をなすとしましょう。)この関手は数学的構造を“忘れる”ようなものであることから、忘却関手 (forgetful functor)と呼ばれます。忘却関手は伝統的にで表されます。
さっそく圏論の言葉と忘却関手を使って自由対象の定義を書き直してみましょう。今考えている数学的構造の全体は圏をなし、またそれに対して忘却関手が定義されているとします。このとき、集合に対しての上の自由対象は、存在するならば以下の条件を満たします:
写像が存在して、任意のと写像に対して、の射がただ1つ存在して、。
いま、任意の集合に対して自由対象が定義できるならば、はからへの関手となって、さらにの左随伴になります(Mac Lane Ⅳ.1節の定理2を参照)。
随伴
関手およびについて、とが随伴であるとは、各対象に対してhom集合の全単射が存在し、とに対して自然であることをいう。
とが随伴であることを、はの左随伴である、はの右随伴であるとも言い、記号ではと書く。
随伴の同値な定義
以下の内容は全て随伴な関手を定める(Mac Lane Ⅳ.1節の定理2を参照)。
- 関手およびについて、自然変換が存在し、各コンポーネントはからへの普遍射となる。
- 関手および各について、からへの普遍射を持つようなの対象が存在する。
- 関手およびについて、自然変換が存在し、各コンポーネントはからへの普遍射となる。
- 関手および各について、からへの普遍射を持つようなの対象が存在する。
- 関手およびに対して2つの自然変換とが存在し、と(下図参照)が共に恒等変換になる。
忘却関手が左随伴を持つとき、それを自由関手という。
圏論の視点では、自由という概念は忘却関手とセットになります。この2つの関手による随伴関係を指して自由-忘却随伴 (free-forgetful adjunction)とも言います。忘却関手の宣言的な定義というものは寡聞にして知りません。あくまで数学的な構造が別途あった時に、その一部を忘れる操作に該当するものに命名されるものと筆者は理解しています。
に対してではない自由関手の例を挙げていきます。
群のアーベル化
群の元に対してをとの交換子という。の部分群に対して、交換子の全体から生成される部分群をとの交換子部分群という。
このとき、剰余群を群のアーベル化 (Abelianization) といい、さらに全射について普遍性が成り立つ。すなわち、アーベル群への準同型に対してとなる準同型がただ1つ定まる。アーベル化は群の圏からアーベル群の圏への自由関手となる。
自由圏
2つの集合と2つの写像からなる組を箙 あるいはクイバー (quiver) と言う。箙は、多重辺もループも許されているグラフと見ることもでき、の要素を頂点、の要素を辺と言う。
任意の圏は対象と射の集合と写像を備えているから、圏の圏から箙の圏への忘却関手が定義できる。
一方、箙が与えられたとき、対象をとして、上の道(すなわち、が成り立つの列あるいは“で留まっている”道)全てを射とみなし、、として、さらに射の合成を道の連結、恒等射をで定めると、これは圏であってさらに上の自由対象となる。
これまでと同様に、箙に対して自由対象である圏を取ることはからへの関手をなし、はの左随伴となる。圏を上の自由圏と言う。
集合と圏の関係
前節の最後で見たように、自由圏とは箙に対して構成されるものであり、集合上の自由な圏というような表現はまずありません。箙もまた同様に、集合上の自由な箙という表現は聞きません。これについて考えてみましょう。
まず、圏も箙も、それを構成するために2つの集合を要するという点が今までと異なっています。従って、1個だけ集合を用意してそこから箙を作ろうとしても、その集合をどうすればいいのか今一つはっきりしません。ぱっと思いつくだけでも
- 頂点集合がであって辺のない箙
- ただ1つだけの頂点を持ち辺の集合がである箙
- 頂点集合も辺集合もで、辺は全て各頂点のループである箙
と3つも考えられます。これらはどれもの関手を構成します。
また、忘却関手も忘却関手で、
- 頂点の情報のみを残す
- 辺の情報のみを残す
- 箙の構成要素であったことだけは残っている
と様々考えられてしまい、1つに定まりません。ではひとまず忘却関手の候補が挙げられたとして、左随伴を持つかどうかを見てみようとすると、次の命題によってこれも1つに定められないことが分かります。
- 関手を次のように定義する:
このとき、自然変換を(は空集合からの自明な写像)によって構成すると、であることと併せてであることが従う。
また、箙に対して、その定義から上の単射が存在する。これを使って、自然変換をで構成すると、であることと併せてであることが従う。 - 関手を次のように定義する:
箙に対して、写像を で定める。これを使って、自然変換をによって構成すると、であることと併せてであることが従う。
また、自然変換を(は一点集合への自明な写像)で構成すると、であることと併せてであることが従う。
グラフとしてそれぞれ記述すると、
- は頂点集合をとする辺のないグラフ
- は頂点集合をとして、全ての(重複含む)2頂点の間に1つずつ辺を持つグラフ
- は2頂点と1辺からなる「」という形のグラフの個のコピー
- はただ1つの頂点を持ちを辺の集合とするグラフ
となります。それぞれの定義から、やはどちらもの情報をそのまま反映しただけの構造であり、その意味で何も情報が増えていないこともわかります(モノイドや加群の場合、随伴の単位は同型にならない)。
に対して、上の自由圏はそれぞれdiscrete category, indiscrete category と呼ばれます。前者に関しては離散圏という和名もあるのですが、後者は特に定訳を持っていないようです。位相空間と同様に訳すなら密着圏になるでしょう。
結論
数学でたびたび言及される「自由」という概念について、圏論的な定式化を紹介し、箙や圏が集合からの自由な構成というものを持たない(そのように呼ばれることが一般にない)ことについて考察しました。圏論的に言えば、とにかく随伴な関手の組を用意して左と右をそれぞれ自由関手・忘却関手と呼んでしまってもいいのですが、考えている数学的構造に対して複数の忘却方法があったり、随伴の単位が自明なものであったりすると、左随伴を持っていても自由関手とは呼ばないことが多いように思います。
余談
忘却関手の右随伴を余自由関手 (cofree functor) よ呼びます。圏論であってもあまり使われていない(余自由という訳語に至っては一応
使用例
がある程度)概念で、もっぱらcofree coalgebraとして登場します。自由対象があったとき、任意の対象は自由対象からの射を持ちます(これは随伴の余単位として提供されます)が、余自由対象があった場合は、任意の対象は余自由対象への射を持ちます。Cofree coalgebra を考える文脈(ホップ代数やリー代数など)においてはしばしば、余自由余代数へ“埋め込む”などと表現されたりもします。
参考文献のオンラインリンク
- Baez, John C., Shulman, Michael. Lectures on n-Categories and Cohomology. In Towards Higher Categories, Baez, John C., May, J. Peter, Ed., Springer-Verlag, New York, 2010, chapter 1, pp. 1-68.
arXiv:math/0608420