First Dgree Entailment(以下FDE)という論理体系があります。これは非古典論理(non-classical logic)の一種であり、古典論理で妥当な推論の一部が成り立たない体系になっています。とくに、前提と結論の間に「関連性」がない推論を批判するという点で、関連性論理(relevant logic)の1つとされています。日本語で検索してもあんまり情報がなかったので、ちょっとした紹介記事みたいな感じで書いてみます。
本稿では以下の3点について説明しようと思います。
- 導入として、FDEなどの関連性論理が古典論理の何を問題としているかについて説明し、形式的な定義の動機付けをします。
- FDEにはモデルの与え方が複数あります。ここでは2通りの定義を紹介し、等価性を示します。
- 最後に、FDEではうまく説明できない推論をいくつか紹介します。
2は割とテクニカルな話になるので、FDE(ないし関連性論理)の概要に興味がある方は1だけ読むと良いと思います。
本稿は、私が大西『論理学』ゼミで参考用に作った資料がもとになっています。そのため、古典論理・様相論理の基本的な性質や、可能世界意味論の扱い方に読者がある程度慣れていることを前提にしています(とくに2のところ)。ご了承ください。
また、非古典論理については勉強し始めたばかりで、どこかで間違えているかもしれません。詳しい方、ぜひご指摘よろしくお願いします。
関連性論理としてのFDE
関連性の誤謬
古典論理では、以下のような推論が妥当になる。
しかし、このような推論は本当に「前提から結論が帰結する」という関係になっているのだろうか?以下の自然言語による例を見てみよう。
妥当な推論?
- 「今日の天気は晴れである」ならば「ゴールドバッハ予想は成り立つか、成り立たないかのいずれかである」
- 「3は素数であり、素数ではない」ならば「次の総理大臣は私である」
それぞれの文を素朴に命題変項に変換すれば、これらの推論は古典論理上では妥当ということになる。しかし、直観的にはこれらの推論は正しいとは言えそうにない。少なくとも、日常的な会話でこのように「ならば」を使われたら耳を疑うだろう。
この違和感の根底には、前提と結論の間に何も関連がないことがあると考えられる。ふつう「推論」といえば、前提の内容をもとに思考をめぐらして結論を引き出すような作業のことを指す。ということは、前提とは何も関係のない結論が出てくるような推論は「正しい」ないし「妥当」とは言い難いのではないだろうか?このような考えから、上に挙げた排中律・爆発律のような推論は関連性の誤謬(fallacy of relevance)を犯している、と言われる。
関連性の有無による違いを見るために、共通の前提を持つ例を挙げてみる([Restall 1999]の例を少し改変)。
- もし「Aさんが定規とコンパスで角を三等分できる」なら、「Aさんは有名になるだろう」
- もし「Aさんが定規とコンパスで角を三等分できる」なら、「Aさんの家の芝生は紫色だ」
どちらも前提は成り立っていないが(このような作図はできない)、推論の正しさという点では違いがある。前者は妥当と思われる。というのも、もしそのような作図ができたとしたら、幾何学を揺るがすような発見になるからである。一方、後者はよく分からない推論になってしまっており、例1と同様妥当には見えない(少なくとも前者ほど納得のいく説明をするのは難しい)。このような違いが生じるのは、前者では前提と結論に「関連」があり、後者はそうではないからだ、という風に説明できるだろう。
以上を踏まえて、関連性の誤謬が避けられるべきものだということを受け入れるなら、妥当な推論が満たすべき1つの条件は「前提と結論の間に何か共通の内容がある」ということになる。このスローガンを形式的な論理体系に適用できるように定式化するのは難しいが、多くの場合以下のような規準が用いられる。
関連性の規準
「全ての妥当な推論について、前提と結論が共通の命題変項を含む」ような論理を、関連性論理(relevant logic)という。
原因と対策
冒頭で述べた通り、関連性の規準を満たす論理として今回はFDEを扱う。形式的な定義を述べる前に、まずはなぜ古典論理では関連性の誤謬が起こってしまうのか、そしてFDEはそれをどう直そうとしているのか、大まかな方針について説明する。
ただし、以下の説明は私が「こう解釈して書くと分かりやすそう」と思って書いているだけで、歴史的経緯などを踏まえたものではないことに注意されたい。
原因
当たり前に思われるかもしれないが、なぜ古典論理では排中律・爆発律が妥当になるのかを丁寧に確認してみよう。
古典論理における排中律・爆発律の妥当性
まず、の定義は以下のとおりである (論理式にの真理値を割り当てる関数は通常通り帰納的に定義されるものとする)。
ここでは「前提が真ならば結論が真」ということである。これは「前提が偽または結論が真」ということであるから[1]、以下が成り立つ。
- かが成り立ち、後者の場合なので、いずれにせよである。よって、の値に関係なく、が成り立つ。
- を仮定すると、かつとなり、矛盾する。よってである。よって、の値に関係なく、が成り立つ。
以上の妥当性の導出において中心となるの性質は、以下のようなものである。
- 任意の論理式について、とのうちいずれか一方だけが成り立つ。
- 任意の論理式について、
前者はという真理値の振る舞いに注目している一方で、後者はという論理結合子の挙動を見ている、と言えるだろう。とは「が真である」ということなので、これを以下のように言い換えておこう。
2つの仮定
- 真理値に関する仮定: 任意の論理式は、真または偽のいずれか一方だけになる。
- 否定に関する仮定: 任意の論理式について、それが偽になることと否定が成り立つことは同値である。
以下では、それぞれの仮定に注目することで、関連性の誤謬を回避する「対策」を考える。
対策1: 真理値を増やす
「真理値に関する仮定」を2つに分解すると、以下のようになる。
- 論理式が真にも偽にもならない、ということはない
- 論理式が真かつ偽になる、ということはない
このうち前者を退ける最も簡単な方法は、論理式が「真でも偽でもない」状態になることを認めることである。同様に、後者を棄却したければ「真でも偽でもある」という状態を認めればよい。このように考えると、以下2×2=4通りの候補がありうることになる。
- : 真であり偽ではない(true only)
- : 偽であり真ではない(false only)
- : 真かつ偽である(both true and false)
- : 真でも偽でもない(neither true nor false)
これら4つを真理値にとるように付値の定義を変えよう、というのが第一の対策である[2]。なお、は真理値の過剰(glut)、は真理値の隔たり(gap)と言われる。
対策2: 否定の内包化
「否定に関する仮定」について考えるために、排中律を非妥当とする直観主義論理(intuitionistic logic)における否定の定義を取り上げてみよう。直観主義論理のクリプキ・モデルによる意味論では、状態(ないし可能世界)の間の遷移関係を考えて、「モデルの状態でが真である」を以下のように定める(詳細は省略)。
ここで大事なことは、「ある状態におけるの真偽は、その状態だけから決まるとは限らない」ということである。すなわち、
要は、命題の否定が真であることが、それが偽であることと同値ではなくなっているのである。この点から、直観主義論理のは否定に関する仮定を破っていると見ることができる。
では、何がこのような相違を生み出しているのだろうか?古典論理では、真理値は1つの関数によってのみ定まったが、直観主義論理では真理値を状態ごとに考え、特定の演算子の真理値が他の状態を参照して決まることを許容する。このような演算子を内包的である(intensional)ということにする(一方で、普通の真理値上の関数として定まるような演算子を外延的である(extensional)という)。否定に関する仮定を棄却するキーは、を内包的な演算子として定義することにあると考えられる。
では、このアイデアをもっと単純化するとどうだろうか。「別の状態」をとりあえず参照すればよいのなら、各状態に対応するを予め用意しておいて、次のように否定を定義できるような気がしてくる。
実は、このような単純な定義により関連性の誤謬を回避できるモデルを作ることができる。これが第二の対策の基本的なアイデアである。なお、このには(Routleyの)スター関数(star function)という名前が付いている。
FDEの2つのモデル
前節の導入をもとに、以下ではFDEを定める2つのモデルを定義する。FDEの言語は命題変項の加算無限集合とからなるものとし、これらにより帰納的に構成される論理式の集合をとする。なお、含意はと定める。
4値モデル
先述のように真理値の過剰・隔たりを考慮して、4つの真理値を取るような付値によって妥当性を定義していく。まずは、真理値の間の演算を定義する。
真理値演算
とし、上で以下のように演算を定める。
の直観的な「意味」を考えると、この定義は理解しやすい。また、の部分だけ見れば古典論理の真理値表と同じである。
モデルは付値のこととし、妥当性は「真であること」(or)を基準に定める。
4値モデル・妥当性
FDEの4値モデルは、以下のような関数で与えられる。
このように与えられるモデル全てのクラスをとする。に対して、推論の妥当性を以下のように定める。
- 文脈上明らかな場合はの添え字を省略する。
- でのによる像を表す。とは、「任意のに対して」ということである。
このようなモデルのもとでは、確かに排中律・爆発律は非妥当になる。
前者だけ示す。をとり、とする。このとき
であるから、となる。
妥当な推論もいくつか紹介する(証明は割愛)。
最後に、これが関連性論理になっていることを確認しよう。
により定まる論理は関連性論理である。すなわち、について、ならばとには共通の命題変項が存在する。
概略
まず、に現れる全ての命題変項に(resp. )を割り当てるような付値のもとでは、(resp. )になることが、論理式の構成に関する帰納法によりわかる。
これを用いて、定理の対偶を示す。に共通の命題変項が存在しないならば、に現れる全ての命題変項にを、に現れる全ての命題変項にを割り当てるような付値が存在し、この付値のもとでだがなので、となる。
可能世界によるモデル
否定を内包的な演算子として定義するために、可能世界(状態)ごとに真理値が定まるようなモデルを考える。
可能世界によるモデル・妥当性
FDEの可能世界によるモデルは、以下で定まる組として与えられる。
- : 非空な集合
- 関数であって、を満たすもの
- 付値の拡張
このように与えられるモデル全てのクラスをとする。に対して、推論の妥当性を以下のように定める。
後で示すことだが、このように定まる妥当性はと等価なので、先ほど4値モデルについて示した性質はこの可能世界によるモデルでも成り立つ。
とはいえ、定義の特徴をつかむために、非妥当な推論の例だけ見ておこう。
前者だけ示す。以下のようにモデルを定める。
- をとり、を次のように定める(他の引数をとる場合は値を0とする)
このとき、よりであるから、と併せてとなる。一方でなので、このようなの存在によりとなる。
2つのモデルの等価性
以上で定まる2つの妥当性は、かなり異なる形のモデルによって定義されているが、実際は等価である。非常に粗く言えば、特定のとに対して
- であることはが真()であることと同じ
- であることはが偽()であることと同じ
という対応関係がある。これをきちんと証明しよう。
の対偶を示す。を仮定すると、ある反例となるモデルとが存在して、となる。
このとき、付値を次のように定める[3]。
ここで、任意のについて
となることを、の構成に関する帰納法で示す。
この補題の(1)と最初の仮定より、となるので、が成り立つ。
もほとんど同様に示されるので、概略だけ説明する。とするような反例の付値を用いて、以下のようにモデルを定める。
先ほどの補題と同様、命題変項における対応関係は論理式全体へと拡張され、これによりが示される。
2つのモデルの相違点
等価であるにもかかわらず、なぜ複数モデルの定義があるのか?と疑問に思われる方もいるかもしれない。この背景には歴史的な経緯がある。当初、これらのモデルはそれぞれ別の派閥によって研究されていた。4値モデルは北米で発展した一方、可能世界によるモデルはオーストラリアで盛んに研究された(らしい)。このため、関連性論理に対するアプローチとして、前者はAmerican plan・後者はAustralian planといわれる。
このような経緯で、2つのモデルには相反する長所・短所がある。4値モデルでは複合式に対する付値を簡単かつ直観的に与えられるが、可能世界によるモデルでは付値を定義する際に「スター関数」というよく分らないモノに訴えることになる。一方、後者のモデル論では、可能世界がなす構造に課す制約を調整することで、様相論理における対応理論と同様に、妥当になる論理式を細かく調整することができる。この点では4値モデルは単純すぎ、やや見劣りする。さらに、4値モデル上では含意をうまく定義することが難しいという問題もある。
という感じで一長一短であり、これらを併せて「4値可能世界モデル」を提案するような研究すらあるようだが、これ以上は本稿の射程を超えるので、この辺にしておく。
FDEの限界
関連性の規準を満たす論理ができたからヨシ!、としたいところだが、FDEにも問題は残っている。FDEは否定の絡む問題についてはうまく対応できるかもしれないが、その他の結合子の扱いに弱点がある。
含意にまつわる問題
まず、含意に問題がある。FDEでは「ならば」がと定義されるが、このような含意だと、望ましくない推論が妥当になったり、成り立ってほしい推論が妥当にならなかったりする。
実質含意のパラドックス
まず、FDEでは以下の推論が妥当になる (は同じことなので、以下では統一してと書く)。
どれも関連性の誤謬を犯しているわけではないが、冒頭の例と同様、自然言語にすれば「ならば」の使い方としておかしいことがわかる。これらは、古典論理流ので定義された含意に伴う問題ということで、実質含意のパラドックス(paradox of material implication)と言われる。
これはある意味で、「偽からはなんでも結論できる」「どんな前提からでも真を結論できる」という爆発律・排中律と同様の問題であるとも捉えられる。これまではというメタレベルの記号について議論していたが、話がという対象レベルに移ったわけである。
modus ponensの不成立
一方で、FDEでは以下のように、modus ponens(の除去則)が成り立たない。modus ponensは非常に基本的な推論であり、流石にこれは成り立ってほしいだろう。
というわけで、を単に略記とするのではなく、独立に意味の与え方を考えることで、含意固有の事情を考慮する必要がある。
典型的な関連性論理では、FDEの否定と同様、含意を「内包化」する(別の可能世界・状態を参照して真理値が定まる演算子とする)ことになるが、詳細な定義を説明すると長くなるので割愛する。
選言にまつわる問題
含意を実質含意として定義することをやめたとしても、もとのの方ではmodus ponensに相当する推論は非妥当である。すなわち、
実際、FDEの立場からすれば、が成りたったとしてもの成立は排除されない(両方が真になりうる)ので、とは結論できない。2つ目も同様である。
しかし、これらの推論形式は選言三段論法(disjunctive syllogism)とよばれ、現代的な数理論理学ができる前から妥当とされてきた由緒正しい推論である。そして実際、私たちは日常的にこのような推論をしている。例えば、Aさんは夕方には職場にいるか家にいるかのどちらかであるとして、Aさんが家にいないことを確認したら、「ああじゃあ今は職場かな」と推論するのは至極もっともなことだろう。
ということで、選言三段論法を捨てるのは惜しい。関連性論理を擁護する立場から可能な1つの応答は、真理値上の関数で定まるとは別に、選言三段論法が成り立つ「または」を考えればよい、ということである。例えばという関連性論理の体系では、含意を使って「でないならば」として定義される「または」がある。
このような「または」はいったい何者なのだろうか?まず、は実質含意のパラドックスを回避できるように定義されるため、(または)が成りたったとしてもが真になるとは限らない。一方で、とが両方成り立つととなる。これは単なる真理値上の関数として定義されるの振る舞いに対照的である(からが帰結するが、とが両方成り立ってもは必ずしも帰結しない)[4]。
このようなを適切に解釈するためには、「とがともに否定される可能性はない」という様相(modality)を含んだ読み方をするとよい。「可能性」の話をしているわけだから、との一方が現実に成り立っていたとしても、このような「または」を主張することはできない。一方で、現にとが成り立つことが分かったら、「可能性はない」とは言い切れない(反例があることになる)ので、となるだろう。このように「可能性」や「必然性」を解釈に含むという点から、は内包的選言(intensional disjunction)と呼ばれる(対して、は外延的選言(extensional disjunction)といわれる)[5]。テクニカルな定義としても、ではが内包的な演算子とされるので、の真理値は別の状態・世界を参照して定まることになる。
とはいえ、自然言語における「または」を外延的に読むか内包的に読むかは難しい問題であり、そもそもこのような区別など存在しないと批判する論者もいる。また、これら2つの違いは論理学という言葉通りの意味を扱う分野ではなく、文脈や状況との関係により決まる語用論(pragmatics)的なレベルで議論されるべきだとする人もいる。さらに、排他的選言(exclusive disjunction)という別の「または」もあることが知られており、内包的選言を導入しただけで全て解決、というわけではなさそうである。
とはいえ、モデルを細かく設定することで、現実の推論に関する現象をこれまでよりは「うまく」説明できるようになりそうだ、とは言えるだろう。人間の行う推論活動の一見して「曖昧」で「ふわふわ」した側面を、このように形式的に捉えられるのが関連性論理の魅力の一つと思われるのだが、いかがだろうか。
長くなってしまったので、まとめに入ります。古典論理に対する批判として関連性の誤謬に注目したものがあり、FDEはこの問題を解決しようと試みる論理体系です。そして、FDEには4値モデルと可能世界によるモデルという、等価な2種類のモデル論があることを紹介しました。そして最後に、FDEでは含意や選言に関する問題が指摘されうることを観察し、「内包化」した演算子を考えることで対応できる可能性があることが分かりました。
そして先述の通り、FDEにはなかった内包的な含意・選言を扱う体系として関連性論理があります。これに対するモデル論としては、RoutleyとMeyerによるものが有名で、FDEの可能世界によるモデルにさらなる構造を加えたものになっています。詳細を知りたい方は、大西『論理学』の第11章以降や、Priestの教科書の10章を参照してください。
[1]: ここに引っかかる方がいるかもしれないので補足をしておく。この説明では最終的に関連性の誤謬の原因をの性質というモデルの定義に帰着させているが、この段階でを「でないまたは」と古典論理の「ならば」(実質含意)で読んでしまっていることがパラドックスの原因だ、と主張することもできそうなものである。しかし、ここでは落ち着いて区別をする必要がある。いま分析している「」や「」に出現する論理結合子は、形式言語の体系、すなわち「対象レベル」に属する記号である一方、はそのような体系について外側から議論する際に私たちが使う「メタレベル」に属する言葉である(での見栄えを良くするために後者も記号にしているだけである)。形式的な論理学がなどの数学的な道具で意味の定義を与えるのは前者の対象レベルの言語であって、ここでメタレベルのの「定義」について議論しようとすると、2つのレベルの境界が曖昧になってしまう。数学的に論理を扱う際にはこれらを区別しないと混乱が生じる。また、現代の数学では、メタ論理は基本的に古典論理とされる(もちろん構成主義数学などそうではない立場はたくさんあるが)。以上が、を古典論理的に扱っていることをパラドックスの原因としなかった理由である。とはいえ、疑問は残る。形式的な論理学は、自然言語の「かつ」「または」といった論理的な言葉を記号にして分析しているわけであるが、これら2つのレベルを区別するとなると、「私たちが使っている論理の正しさ・妥当性」を最終的に保障するのはいったい誰なのかという問題が出てくる。論理法則を正当化しようとさらなる「上位の」法則に訴えるとキリがない(無限後退する)という問題は「ルイス・キャロルのパラドックス」として知られている。これ以上は論理学の哲学(philosophy of logic)の問題になるので本稿では触れないが、興味のある方には読みやすい入門書として 飯田隆(2016)『規則と意味のパラドックス』(ちくま学芸文庫)をオススメする。 ↩ [2]: 数学的には付値の値域を2元集合から4元集合に変えるだけなので大した手間ではないが、真理値というものがこのような状態をとることが本当に正当化されるかどうかについては、「真理」に関する哲学的な議論が必要である。真理値の隔たりを認める立場としては、「真理」概念を「主張可能性」ないし「証拠の有無」に帰着させるものがある(マイケル・ダメットの反実在論など)。このような立場からすれば、「まだ真とも偽とも主張できない(証拠がないから)」という状況は自然なものとして受け入れられる。一方で、真理値の過剰を認める立場は、真なる矛盾を容認するという意味で真矛盾主義(dialetheism)とよばれ、現代の論理学の哲学ではグレアム・プリーストなどが有名だが、古代のインド思想にもこのような考えが見られるらしい。 ↩ [3]: とは限らないが、もしならがを値に取らなくなるだけであり、この後の証明に影響はない。 ↩ [4]: ここで「両方成り立つと」と自然言語で書いたのは、というわけではないからである。関連性論理においては、「複数の前提を併せる」ような「かつ」には、内包的連言という別の演算子が使われる。が、本稿の解説の範囲外になるので、このように説明を簡略化している。なお、モデルに対して適当な制約を課せば、確かにとなる。さらにこの逆も成り立つので、内包的連言・選言の間にはド・モルガン律が成立することになる。 ↩ [5]: 計算機科学や数理論理学の分野に触れたことがある方は、これを見て線形論理(linear logic)における加法的・乗法的な論理結合子の区別のことを想起したかもしれない。関連性論理の演算子とこれらは厳密に一致しているわけではないが、どちらの論理もある種の部分構造論理(substructural logic)であり、証明論における構造規則の一部を却下する点が共通している。 ↩