多様体やトポロジーを学んでいると, どこかの段階で向きの概念について習います. 「向き付けられない図形」の代表格である「メビウスの帯」は, 子供の頃に作ったことがあるという方も多いでしょう. このあまりにも身近な例の特徴から, 向きの付けられない図形のことを「裏表の区別がない図形」というイメージを持たれた, あるいはそのように説明されたことがある方も少なくないのではないでしょうか.
ひととおりの幾何学(多様体論)を学んでふと振り返ると, ある時次のような疑問が湧いてきました.
しばしば同列に語られる「向き付け可能性」と「裏表の区別の有無」は, 果たして本当に同じ概念だろうか?
今回は空間の中に置かれた曲面に対し, 定義の復習や具体例を通してこのテーマを考えていくことにします.
※本稿では, 多様体は全て連結かつ第2可算公理を満たすものとします.
はじめに, 多様体の向き付け可能性について復習しておきましょう.
このように, もともと多様体の向きは, 局所座標をいくつ貼り合わせていっても座標の向きの整合性が保たれることでもって定義されていました. メビウスの帯が向き付け不可能なのは, 座標近傍をぐるりと一周させるとその向きが逆になってしまうからです.
また, 有名な射影平面
2次元射影空間の分解
多様体の向き付け可能性は, 次のように微分形式を用いて定式化することもできます.
多様体
(1)
(2)
微分形式を使ったことによってより際立つのは, 多様体の向きの定義が
ここまでで多様体の向き付けの定義について見てきました. メビウスの帯に裏表が無かったり, 向き付け不可能な多様体にはメビウスの帯の構造が含まれていたりと, 「向きがある=裏表がある」という感覚は今のところ間違ってないように思います. ですがそもそもの話, 我々は図形の裏表をまだ数学的に定義していません. では, 図形の裏表って一体何なのでしょうか?
通常我々は, 空間の中に置かれた図形を外から見ることを通してその裏表を認識します. ですので本来, 裏表というものは, ある多様体にはめ込まれた部分多様体に対して定義される概念のはずです.
ところで, 曲面論なんかで次のような向きの定義を見たことがある方も多いのではないでしょうか.
(1) 曲面
(2) 曲面
先に定義した向きとは区別する意味で「」を付けました.
こちらの定義によれば, 法ベクトルの向いている方向が表, そうでない方が裏という風に, より直感に沿った意味で裏表が考えられそうです.
そこで今回は, この「向き」の定義をベースに, 超曲面(余次元1の部分多様体)の裏表を次のように定義しましょう.
Riemann多様体
単位法ベクトルの存在に基づく裏表のイメージ
ベクトル束の言葉を使うなら, この定義は「超曲面
さて, 裏表の概念が定義できたところで, 冒頭の問いを改めて定式化しましょう.
超曲面において, 「向き付け可能性」と「裏表の区別の有無」は同値だろうか?
実は向き付け可能な多様体に対しては, その中の超曲面の向き付け可能性と裏表の有無の概念は一致します.
(1)
(2)
超曲面
となる. 対偶を考えると,
それでは向き付け不可能な多様体の場合はどうでしょうか? 少し考えると, 一般には向きと裏表の両者は一致しないであろうと結論づけられます. と言うのも, 先ほど例に挙げたメビウスの帯と, その中にセンターラインとして埋め込まれた円周
メビウスの帯のセンターラインは向き付けられるが裏表の区別はない
このように、今回考えた裏表の概念は, 超曲面が多様体のなかでどのように置かれているかに依存します. 内在的だった向きの概念に対して, このような概念は外在的(extrinsic)であると言われます. 向きと裏表は, 内在的か外在的かという点で決定的な違いがあったのです.
改めて, 冒頭の問いに回答を提示しておきましょう.
超曲面の「向き付け可能性」と(今回定義した)「裏表の区別の有無」は, 前者は多様体の内在的性質に, 後者は外在的要因に依存して決まるため, 一般に異なる概念である.
次節では両者の概念が一致しないような色々な例を見ていきます.
向きと裏表の違いについて理解したところで, それらが一致しない色々な具体例について考えます.
はじめに, 向きもつけられないし裏表の区別もないような例を見てみましょう. これは比較的簡単に構成できて, 射影空間
次に, 向き付けられないけれど裏表の区別はつけられる曲面の例を考えます. 向き付けできない曲面として, 先ほどと同様に射影平面
を考えればよいです. 実際,
最後に, 向き付けできるけど裏表がない曲面の例を考えます. この例は少し難しいですが, メビウスの帯のセンターラインの例を高次元化するイメージを持つとわかりやすいです.
メビウスの帯の境界に沿って円板を貼り付けると射影平面
が, 求める曲面の例を与えます.
トーラス
一方, このトーラスに直交するベクトルは,
これまでに見てきたように, 超曲面の向き付け可能性と裏表の区別の有無は, ある意味で全く別の概念であることがわかりました.
超曲面に裏表があるかどうか, すなわち大域的な単位法ベクトル場が存在するかどうかは, 超曲面の変分問題を考える上で重要になります. 標準的な変分問題の教科書では, 向きと裏表の微妙な違いについて触れられたものは少ない(と思われる)ため, この部分で誤解したりつまづいたりしている方々の助けになればと思い, 本記事を執筆するに至りました.
少しでも幾何学って面白いと感じていただければ幸いです.