十一月の夕方、研究室の窓が早くも暗くなるころ、私は電磁気学の過去問の大問とにらみ合っていた。物理系の内部生で、計算には自信があったと思う。ガウスの法則もアンペールの法則も、手はよく動く。それなのにその日の——誘電体を挟んだ境界値問題では、後半で符号が合わなくなった。電場の向きをどこかで取り違えたのか、係数の $\varepsilon$ を落としたのか。何度見直しても、ずれ始めた地点が見つからない。
模範解答を並べて、ようやく分かった。私の答案は、いきなり「電場は $E=\dots$」と書き出していた。座標系をどう取ったのか、どの対称性を使ったのか、境界で何が連続して何が飛ぶのか——その宣言が一行もない。計算そのものは部分的に正しいのに、採点者には「どの量を、どの向きに定義して解いているのか」が伝わらない。だから途中で符号が入れ替わっても、自分でも気づけなかった。
指導していた先輩に答案を見せると、開口一番こう言われた。「電磁気は、最初の五行で勝負が決まる」。計算力ではなく、設定の宣言だと。座標・対称性・境界条件を答案の冒頭で固定してしまえば、あとの計算は宣言した枠の中を動くだけになる。符号は定義から自動的に決まる。私はそこから、答案の書き出しを作り直した。
出発点はいつも Maxwell 方程式(微分形)に置く。
$$\nabla\cdot\mathbf{D}=\rho_f,\quad \nabla\cdot\mathbf{B}=0,$$
$$\nabla\times\mathbf{E}=-\frac{\partial \mathbf{B}}{\partial t},\quad \nabla\times\mathbf{H}=\mathbf{J}_f+\frac{\partial \mathbf{D}}{\partial t}.$$
媒質中では構成方程式 $\mathbf{D}=\varepsilon\mathbf{E}$, $\mathbf{B}=\mu\mathbf{H}$ を併記し、どの $\varepsilon,\mu$ を使うのかを最初に書く。静電なら $\partial_t=0$ として $\mathbf{E}=-\nabla\phi$、$\nabla^2\phi=-\rho/\varepsilon$(ポアソン方程式)に落ちることも宣言しておく。
符号事故の元凶だった境界条件は、表で暗記するより「何が連続か」を言葉で押さえるのが確実だ。境界の単位法線を媒質1から媒質2へ向けて $\mathbf{n}$ と取り、接線成分と法線成分で次のように整理する。
$$E_{1\parallel}=E_{2\parallel},\qquad D_{2\perp}-D_{1\perp}=\sigma_f,$$
$$B_{1\perp}=B_{2\perp},\qquad \mathbf{n}\times(\mathbf{H}_2-\mathbf{H}_1)=\mathbf{K}_f.$$
つまり電場の接線成分と磁束密度の法線成分は常に連続、電束密度の法線成分は自由表面電荷 $\sigma_f$ のぶんだけ飛び、磁場の接線成分は表面電流 $\mathbf{K}_f$ のぶんだけ飛ぶ。$\sigma_f$ も $\mathbf{K}_f$ も無ければ、すべて連続だ。この「法線の向きを先に決める」一行があるだけで、$D_\perp$ の飛びの符号が動かなくなる。
境界が導体平面や接地球なら、鏡像法が強い。接地した無限導体平面から距離 $d$ に点電荷 $q$ を置くと、平面の向こう側 $-d$ に像電荷 $-q$ を置いた系と、上半空間では完全に等価になる。導体表面で $\phi=0$ という境界条件を、像電荷ひとつで自動的に満たせるからだ。答案では「導体面上で $\phi=0$ を満たす像電荷を $-q$、位置 $-d$ に取る」と宣言してから、表面電荷密度 $\sigma=-\varepsilon_0\,\partial_n\phi$ の計算へ進む。ここでも、境界条件を先に言葉にすることが手順を一意にする。
一様外場 $\mathbf{E}_0$ 中に置いた誘電率 $\varepsilon$ の球も定番だ。球の内外でラプラス方程式 $\nabla^2\phi=0$ を解き、一般解を
$$\phi_{\text{out}}=-E_0 r\cos\theta+\frac{A\cos\theta}{r^2},\qquad \phi_{\text{in}}=-B\,r\cos\theta$$
と置く。あとは $r=a$ で「$\phi$ 連続(=接線成分 $E_\parallel$ の連続)」と「$\varepsilon\,\partial_r\phi$ 連続(=法線成分 $D_\perp$ の連続)」の二本を課して $A,B$ を決めるだけだ。境界条件を冒頭で言葉にしておけば、ここで $\varepsilon$ を掛け忘れる事故が消える。
時間変化がある問題では、ベクトルポテンシャル $\mathbf{A}$ とスカラーポテンシャル $\phi$ を導入し、$\mathbf{B}=\nabla\times\mathbf{A}$、$\mathbf{E}=-\nabla\phi-\partial_t\mathbf{A}$ と書く。ゲージ(クーロンか、ローレンツか)を一行で選んでおくと、$\nabla\times\mathbf{B}=\mu_0\mathbf{J}+\mu_0\varepsilon_0\partial_t\mathbf{E}$ の変位電流項を落とさずに済む。準定常近似で変位電流を無視するなら、無視できる根拠(特徴的な時間スケールと波長の比較)も一行で書き添える。
結局あの符号事故は、計算力の問題ではなく宣言の不足だった。電磁気学の答案は、(1) 座標系、(2) 使う対称性、(3) 境界で連続・不連続になる量——この三点を最初の五行で固定するだけで、後半の符号は定義から一意に決まる。本番では、解き始める前にこの五行を書く時間を必ず取るようにした。それ以来、「途中まで合っていたのに」で崩れることはほとんど無くなった。
過去問を解いても、電磁気学は「自分の答案のどこで符号が破れたのか」を一人で判定するのが難しい。市販の解答が無い大学も多く、独学だと答え合わせの基準そのものが手に入らない。院試hubでは、東大発の団体が作成したオリジナル解答で、境界条件の置き方から符号の根拠まで照らし合わせができる。電磁気学の院試対策で答案づくりに行き詰まったら、一度のぞいてみてほしい。