本記事(シリーズ)は,筆者による独自解釈が強めの記事です.参考文献を挙げるべしという指摘はごもっともですが,お応えできません.小説か随筆のようなものとしてお読みください.
また,筆者は非常に怠惰な人間であり,これまでに始めたブログ等は数知れず,しかし,今に至るまで続いているものは一つもありません.つまり,本シリーズはいつ終わるかわかりません.
以上のことをご理解いただいたうえでお読みください.
この記事を読んでいる皆さんは,おそらく数学者を
ということで,今回のテーマは女性である.現代社会は,どのように男女平等を実現するかが非常に大きなテーマとなっている.例えば,SDGsの目標の中でも「ジェンダー平等を実現しよう」という項目があるし,日本ではジェンダーギャップ指数が何位だというので毎年のように盛り上がる.[1]
では,そもそも歴史的に見て,いつから人類は男女不平等になったのだろうか.
と,問いから始めてみたが,これに対して確定的な解答はできない.なんせ,男女不平等の歴史はあまりに長く,その始まりは先史時代にまで遡る.[2]そんな時代のことはよくわからないので,明言はできない.
ただ,しばしば見られる誤解を先に書いておこう.それは「古代はまだ男女平等だった」という意見である.この意見を言う人は,卑弥呼,推古天皇,紫式部や北条政子あたりをしばしば持ち出してくる.ほら,昔はこれだけ女性が活躍していた.ところが今はどうだろう?なんて言い始める.
まあこれならまだマシだ.ひどい場合には,日本に男尊女卑の思想が入ったのは西洋の文化を取り入れた際だという人もいる.そんなはずがないだろう.彼らは中国文化の強烈な男尊女卑思想であることを知らないのだろうか.[3]
この記事のテーマは世界史だから(数学じゃないの?とツッコミを入れてはいけない),まずは外国に目を向けてみよう.例えばエジプトのクレオパトラは,古代史で最も有名な女性であろう.しかし彼女以外の女性権力者はと言うと,なかなか挙げられまい.他に例を挙げるなら中国の則天武后くらいだろうが[4],彼女はとんでもない大悪女である.彼女を例に出して古代は男女平等だったと言うのは,通り魔には平等意識があるというようなものである.ともかく,女性がリーダーだった例など本当に少ないのである.
それに比べると,日本は幾分かマシかもしれない.確かに女性のリーダーはそれなりに挙げられる.しかし,記録のない古墳時代についてはいざ知らず,少なくとも隋・唐を真似して数世代経った日本(奈良時代や平安時代頃)には確実に男女差別があった.先にも述べた通り,中国は男尊女卑社会だったから,その中華文明を模して作った平城京・平安京において男女差別が存在しないわけがない.[5]というわけで,「古代はまだ男女平等だった」という意見は,歴史の一部分しか見ていないと言わざるを得ない.
話を戻そう.
歴史的に見て,いつから人類は男女不平等になったのか.答えは,狩猟採集社会から農耕社会に移行した頃だと考えられている.
狩猟採集の時代には,人々は小集団を形成していた.集団に属する個々人はそれぞれに役割を持っていたが,その役割は固定化されていたわけではなく,状況や環境によって柔軟に変化していた.男女という生物的な違いは存在したが,全員が協力し合う関係で生活していたため,性別による支配関係は希薄であった.[6]
それが農耕社会に移行すると,土地や財産の所有権の考えが生まれる.こうなると,社会をまとめるための法が必要になり,支配-被支配の関係が生まれてくる.また,一方で大社会が形成されていくことで,人の役割が強固に固定化されていく.そうなれば,家族単位での役割分担が明確化されていき,体力のある男性が優位に立って,女性が軽んじられる,というのはありそうな帰結だろう.
そんなわけで,男女不平等の歴史は非常に長いことがわかっていただけたかと思う.
数学史において最も重要な女性と言えば,エミー・ネーターであろう(アインシュタインがそのように評価しており,権威主義者の私はそれを信じる私もそう思う).しかし最もよく知られている数学者と言えばソフィー・ジェルマンではなかろうか.
この理由は大きく二つある.
第一に,ネーターの業績は簡単に理解できないことだ.(例えば,最も重要な業績であろう「ネーターの定理」を理解するためには,解析力学の奥深くまで立ち入らなければならない.興味があれば
Wikipediaのネーターの定理
を見てみればよい.)
第二に,この全く反対の理由だが,ソフィーの方には,わかりやすい業績がある.それは,あの「フェルマーの最終定理」について大きな貢献を果たしたことである.ついでにその派生で,「ソフィー・ジェルマン素数」が存在することも挙げられる.
ネーターは
が,その前に,他に女性の数学者がいないのか?という疑問がありそうなので一応答えておく.
私の知る限り,他の女性の数学者といえば,ヒュパティア(
さて,唐突だがクイズをしよう.
ところで,ソフィー・ジェルマンの誕生した
イギリス・アメリカと記述したが,ソフィーはフランス生まれである.この時代のフランスと言えば,ヨーロッパを大混乱に陥れた元凶である.そう,フランス革命(
産業革命,独立戦争に西部開拓,フランス革命,侵略戦争と,全く異なるものを挙げたが,全てに共通して言えることが一つある.それは人命軽視である.
産業革命後のイギリスの都市労働者(リヴァプール)の平均寿命を知っているだろうか.驚きの
アメリカはどうか.よく知られているように,西部開拓の時代にはインディアンに対して残忍な扱いをしている.それはそうだろう.当時のアメリカは奴隷制が当たり前だったのだから,白人以外は家畜と同じようなものだ.そもそも独立宣言の冒頭には「すべての人は平等で,生命権,自由権,幸福追求権を持っている」と書かれている.しかし残念ながら,その「すべての人」の中に奴隷は含まれていない.今から考えれば,おぞましい人権軽視である.[10]
フランスはどうか.フランス革命の最初の成果は「フランス人権宣言」であろう.ところが,フランス革命政府は人権なんぞ無視して,人民に対して過大な要求をした(フランス人権宣言第
その後のナポレオン戦争はどうか.ナポレオンが戦火をヨーロッパに拡大した大義名分は,革命の理念・思想をヨーロッパ全土に広めるということである.ところが,実際はそんな高尚なものではないだろう.フランス革命によって,フランスの財政は完全に破綻していた.お金をどこかから引っ張ってこないといけないから,他国に戦争を吹っかけてお金をもらいましょうというのがナポレオン戦争である.そんな理由でヨーロッパ中が戦場となり,その中で多くの人命が損なわれた.
まあ現代でも,ガザに対するイスラエルやウクライナに対するロシアを見れば,劇的に改善したとは言えないだろう.それでも,人類全体の人権リテラシーが向上しているだろう点では,少しはマシになっているのかもしれない.(どうして為政者の人権リテラシーはこんなに低いのだろうか?)
ともかく,これだけ人権意識が希薄だった時代が,ソフィー・ジェルマンの生きた時代である.男女平等など夢物語のまた向こうである.誰がそんなことを思いつくだろうか.
さあ,いよいよソフィー・ジェルマンだ.
彼女が
こうした混乱期に学問が発展するのかという疑問がありそうだが,答えはYesである.
フィボナッチの話をした際
に,
それに比べてフランス革命期は,政治的混乱の絶頂期ではあったものの,下手に政治参加せず,為政者に逆らわなければ,生存が危ぶまれる時代ではなかった.貴族のトップであるルイ
とは言っても,おいそれとコンコルド広場を散歩できるわけでもない.ソフィーはパリの革命の熱気から遠ざかって,家の中に引きこもったようである.
幸い裕福な家庭に生まれたソフィーは,家に父の書庫があり,暇を持て余すことはなかった.一説によれば,そこで見つけたアルキメデスの死の話[12]を読んで数学に興味を持ったということである.個人的な推測を述べれば,彼女はそれ以前から学問への関心が高かったのだろう.その中でも,親が商人だったこともあり,数学(計算)に多少の関心はあったのではなかろうか.アルキメデスの逸話を知って,そこから数学を始めたと仮定すると,
どんな経緯があったにせよ,ソフィーは数学に関心を持ち,父の書斎にある数学の本を読み漁った.ただし,彼女の両親はそれを喜ばなかった.当時の社会は,女性が学問の世界に入ることを良しとしなかった.ソフィーの両親も,そうした社会の一般常識が身に染みついてしまっていたのである.そんなわけで当初はソフィーが数学にのめり込むのを妨害したが,やがてはソフィーの熱意に負けて,寛容になったようだ.
さて,ソフィーが
ラグランジュはソフィーの卓越した能力を見出し,彼女と直接話してみたいと伝えた.当のソフィーは自分を認められて嬉しかった一方で,会ってよいものかと悩んだだろう.それでも,正体を明かしてラグランジュと会うことにした.ラグランジュは,ソフィーが女性だと知って驚いたに違いないが,それを理由に対応を変えなかったどころか,彼女の指導者とまでなった.
さて.次なるソフィーの人生の転機は,ガウスとの出会いである.彼はソフィーとは一つ違いであり(ガウスの方が年下),現在のドイツに生まれ,一生涯をドイツで過ごした.ソフィーは,ガウスという大天才がドイツにいると知ると彼に関心を持ち,彼に手紙を出した.もちろん(と言っていいかわからないが,)ラグランジュの時と同じように,自分を男性だと偽って交流した.何度か手紙のやり取りをした中で,ガウスもソフィーの才能を感じたようである.しかしソフィーとガウスは直接会うことはなく,彼らの交流は文通だけで終わった.
文通とは別の出来事があり,ガウスはソフィーが女性だと知ることとなる.当時,フランスはナポレオン戦争の真っただ中で,ガウスの住んでいた町はフランス軍の占領下にあった.ソフィーはガウスのことを心配して,家族の友人であった将軍にガウスの安全を依頼した.その将軍は依頼を承諾し,ガウスと実際に会って無事であることを確かめると「ソフィーに感謝せよ」と伝えた.
これにガウスは混乱した.ソフィーの方は自分の性別と名を偽って,ルブランと名乗っていたためである.おそらくガウスは将軍に確認して,「ルブラン」が実際はソフィーという女性であることを知ったのだろう.その出来事があった後,ソフィーはガウスに正体を明かし,ガウスは別に気を悪くすることもなく,その後もしばらくは手紙の往来が続いた.なお,ガウスはソフィーに宛てた手紙の中で,このように記したそうである(やや意訳).
習慣や偏見によって,男性よりもずっと多くの困難が,あなたを待ち構えている.しかし,そうした逆境を乗り越えることで,あなたは優れた天賦の才を持つ者として認められるだろう.
こうしてガウスとソフィーはお互いに認め合うのだが,二人の文通は自然に途絶えることとなる.二人の文通のテーマは数論だったが,まずガウスの興味が数論から離れ,ついでソフィーの方も別のテーマに興味が移ったためである.ちなみに偶然ではあるが,二人ともが次なるテーマとして解析学の系統を選んでいる.
ソフィーが次に選んだテーマは,弾性体の振動に関するものである.一応書いておくが,物理学であることに驚いてはいけない.物理学は,突き詰めれば物理現象を数式で記述する学問であり,数学だとも言える.古典力学の創始者であるニュートンだって,微分積分法を見出している.
ともかくソフィーは弾性振動の研究に取り組んだ.ルジャンドルからの援助があったのを打ち切られたり,ポアソンに自身の研究の一部を利用されたりと,そこでも色々なことがあったようだ.ただ,紆余曲折の末に彼女は一定の成果を上げ,本名で投稿した論文によって,フランス科学アカデミーから大賞を受けることとなる.
いよいよお待ちかね,フェルマーの最終定理の話である.ソフィーは,弾性振動の研究をしている傍らで,数論のことをしばしば考えていた.そんな中,ソフィーはフェルマーの最終定理に興味を持った.
フェルマーの最終定理とは次のようなものである(以下,FLTと略す).
次の二つの条件を満たすとき,
この定理は,非常に大きな進歩であった.あのオイラーでさえ,
なお,ソフィー以降も,しばらくの間は,個別の
ソフィー・ジェルマンはこのように,多方面で貢献を果たしたが,当時の学者の間で正当に評価されることは少なかった.それはひとえに,ソフィーが女性であったからに他ならない.彼女は,女性であったが故に教育を受けられず,確固たる基礎を身につけられなかった.そのため,彼女の研究はしばしば厳格性を欠いていた.このことを批判的に見る人は「女はやっぱりダメだ」と短絡的に捉えたであろう.反対に,ソフィーを同情的に見る人は,多少の厳格性に対しては目を瞑ってでも,彼女の研究に意義を見出すべきだと考えた.しかし,ソフィーにとって真に必要だった存在は,彼女を批判しつつ,その上で彼女の欠点を補う教育ができる存在だっただろう.
ただし,「ソフィー・ジェルマンは男にしか施されなかった厳密性の訓練がなかったゆえに,決して達成されなかった数学的な輝きをもっている」と結論付けている伝記もあるため,ソフィーが教育を受けられなかったことを,一概に悲観的に捉えてよいものかどうかはわからない.
おわりに.
ソフィーからおよそ