「Bellの不等式」は今年度ノーベル物理学賞の対象となった研究であり(Ref.[1])、量子力学と古典力学の本質的な差異を浮き彫りにする不等式です。「ゆる学徒ハウス別館」というYouTubeチャンネル(Ref.[2])においてこの不等式を説明する際、エンタングルした全スピン0の電子のペア(後述します)を「同担拒否」に例えていました。同担拒否とは、自分が好きなキャラクター・アイドル・VTuber等に関し、同じ対象を好きな者を拒絶する態度を指します。以下「好きな対象」を「推し」と称します。例えば好きなアイドルグループのコンサートを2人で見にいくとき、同担拒否の2人の推しはかぶりません。
本記事では「同担拒否」の2人に関する推しの統計分布によりBellの不等式を構成します。Bellの不等式にはいくつか違うバージョンがあるのですが、ここで扱うのはJJ.Sakurai「現代の量子力学(上)」(Ref.[3])に記載されている不等式です。不等式の構成法は(同担拒否という概念を用いていること以外)この教科書と同じです。
次の記事では、実際にIBMの量子計算機において計算を実行し(Refs.[4][5])、本記事の形のBellの不等式の破れを実機で確認します。 ちょっと前までは信じられないことだったのですが、いまや量子コンピュータは簡単に使えます。Bellの不等式の破れの確認実験に関する、量子計算の古典計算機におけるシミュレーション、および実際の量子計算機による検証結果を示します。
(次の記事: Bellの不等式(2/2): 量子計算機によるBellの不等式の破れの検証 )
ある3人組のアイドルグループがあります。この3人を
同担拒否の2人の図。下の表のP3のパターンに対応する。
このような条件のもとでは、可能な推しの組み合わせは下の表のようになります。ここで、メンバー
パターン | Aの推し | Bの推し | 組の数 |
---|---|---|---|
P1 | |||
P2 | |||
P3 | |||
P4 | |||
P5 | |||
P6 | |||
P7 | |||
P8 |
表の一番右の列は、それぞれのパターンに当てはまる組の数です。
ここで、以下の数を定義します:
これは、
が成立します。なぜなら、
が成立するからです。ここで場合分けに使用したメンバーを赤文字で強調しました。表にある「組の数」を用いるとこの不等式はもっと簡単に導けます。不等式に現れる数を「組の数」で表すと
なので、
この不等式をすべての組の数でnormalizeし、対応する確率を
を得ます。
以下、「同担拒否モデル」と似た状況を量子力学において設定し、対応する確率の計算を行います。
まず、Bornの規則と呼ばれる、量子力学の観測に関わる原理を記しておきます:
量子状態はヒルベルト空間の元である。これを
と展開した際の係数
である。
次のようにも言える。
である。
Bornの規則を具体的な例で説明します。ここではスピンを観測することを考えます。スピンとは、粒子の自転、また磁石性に対応する自由度です。電子の場合スピンは2つの状態しかとりません。これは矢印のようなもので、ある方向に対し上か下かの2つを取るものだと思えばいいです。数学的には、次に導入する、2行2列の複素行列で表現されるスピン演算子(観測する方向によって異なる)の固有状態です。
以下、z方向のスピンの固有状態を
★ スピン演算子
として
★
以下では
また、
★
これで準備は完了です。
電子のスピンを例にとります。z方向のスピンを測定することにしましょう。
たとえばスピン量子状態が
とします(
のように一意的に表せます。
を得ます。
そして、物理量
に変化します。これが波束の収縮と呼ばれる現象です。
まとめると、量子状態
2粒子の状態は、それぞれの粒子が属するヒルベルト空間における状態を指定することで記述されます。
のように表わされます。
ところが、このような直積の形では書けないことがあります。例えば
がその例です。このような状態を「エンタングルした状態」と呼びます。上記の状態は、粒子Aがz方向のスピン+なら粒子Bはz方向のスピン-であり、粒子Aがスピン-ならBはスピン+である反相関が成立しています:
この状態は全スピンが0の状態です(= SU(2)群において、2つのスピン1/2表現の直積を既約分解したもののうち反対称な表現)。この状態は回転に対して共変的であり、任意の方向に対するスピンの測定において反相関性が保たれます。これは以下のようにしてわかります。y軸回りに
です。これを用いて上記
となります。よって、どんな角度
以下ではこのエンタングルした状態が重要です。
以上の準備をもとに、量子論において
前章で議論したBellの不等式に対応する量子論的な式を、スピンの測定において構成します。
そのために以下のセットアップを用意します:
セットアップで述べたように、初期状態は
です。
ここで
なので
となります。
を得ます。きちんと計算してももちろん同じ答えを得ます。
以上から、本セットアップにおけるBellの不等式は
となります。しかしこれは
よって、本セットアップで実際に量子実験を行い、不等式が成立するか否かを検証すれば、量子力学が古典的統計系と本質的に違うか否かを検証することができます。そして次の記事で示すとおり、Bellの不等式は量子力学では破れます。
ちなみにEq.(1)の右辺は
今回は、エンタングルした電子を同担拒否に例え、Ref.[3]に記載されている形のBellの不等式を構成しました。
最後に、Bellの不等式が量子力学で破れる理由とその意味を少し考察します。
同担拒否ペアにより構成したBellの不等式で本質的なのは、どの2人組も潜在的には各メンバー
また、エンタングルしている2粒子は、それらがどんなに離れても相関を持ちます。しかしながら、この相関はそれらが相互作用している(=力を及ぼし合っている)ことでもたらされるわけではありません。相互作用による相関は、光の速度を超えて伝わることはありませんが、エンタングルしたペアは光速を超えて相関していることが実験的にわかっています(Ref.[6])。そして、この相関で遠方に情報を伝えることはできません。粒子のペアで情報を伝えるためには、何かがある粒子に影響を及ぼし、その影響が遠方の粒子に伝わり、それを観測できなければなりません。しかしスピンの観測はコントロールできるものではなく、ただ確率的に観測されるものです。よってこれにより情報を伝えることはできず、ゆえに相対論には矛盾しません。
情報や相関が光より早く伝わることはないという性質を局所性と言います。量子論は、相関が光速を超えて存在しているという意味で局所性を破ります。以上から、量子論は、局所性及び実在性を備える理論、つまり局所実在論では記述できないことになります。
次の記事において、実際の量子計算機によりBellの不等式の破れを確認します:
Bellの不等式(2/2): 量子計算機によるBellの不等式の破れの検証