はじめまして。中平健治と申します。通常とは異なるベクトル空間の定義を紹介したいと思い,記事を書いてみました。
標準的には,ベクトル空間は「和とスカラー倍を備えていていくつか(8個前後)の条件を満たす集合」のように定義されます。しかし,初学者にとっては,これらの条件の「ココロ」や「本質的な意味」をすぐに理解することは,難しいかもしれません。
この記事では,線形代数のごく基礎的な知識をもつ読者を対象として,標準的な定義とは異なる視点でベクトル空間を定義する方法を紹介します。紹介する定義では8個前後の条件を明示的に用いることなく,同型写像の概念を用いてベクトル空間を素直に特徴付けます。標準的な定義と同値であることも容易に示せます。
標準的な定義とこの記事で紹介する定義の両方を知れば,きっとベクトル空間や線形写像に関する理解が深まることと思います。
話を簡単にするために,この記事では実ベクトル空間に限定することにします(実ベクトル空間を単にベクトル空間とよびます)。実数全体から成る集合を$\Real$と書き,実数をスカラーとよぶことにします。
まずは,標準的なベクトル空間の定義を示します。ベクトル空間では,和とスカラー倍という2種類の演算が登場します。
ある集合$X$を考える。各$x,y \in X$に対して$x$と$y$の和とよばれる$X$の要素($x + y$と書く)が定まっているとき,$X$は和を備えているとよぶ。また,各$a \in \Real$と各$x \in X$に対して$x$の$a$倍とよばれる$X$の要素($a \cdot x$または$ax$と書く)が定まっているとき,$X$はスカラー倍を備えているとよぶ。
和とスカラー倍を備えた集合$\V$を考える。$\V$のある要素$\zero$が存在して任意の$a,b \in \Real$と$x,y,z \in \V$に対して次の条件をすべて満たすとき,標準的な意味でのベクトル空間とよぶ。
ベクトル空間の次元についても述べておきます。標準的な意味でのベクトル空間$\V$を考えます。ある自然数($1$以上の整数)$N$に対して,$\V$の部分集合のうち$N$個の要素から成るもの$Y \coloneqq \{ u_n \}_{n=1}^N$が存在して各$x \in \V$を
$$
x = \sum_{n=1}^N a_n u_n \quad (a_n \in \Real)
$$
の形で一意的に表せるとき,$Y$を$\V$の基底とよび,$N$を$\V$の次元とよぶことにします。
ベクトル空間の代表例は,$N$次元列ベクトル空間$\Real^N$です($N$は自然数)。この空間は
$$
\Real^N \coloneqq \{ s \coloneqq [ s_1,s_2,\dots,s_N ]^\T \mid s_1,s_2,\dots,s_N \in \Real \}
$$
で定められます($^\T$は転置)。$\Real^N$は次のように定められる和とスカラー倍を備えています。
(i) 和:各$s,t \in \Real^N$について$s + t \coloneqq [s_1 + t_1, s_2 + t_2, \dots, s_N + t_N]^\T$
(ii) スカラー倍:各$a \in \Real, ~s \in \Real^N$について$as \coloneqq [as_1, as_2, \dots, as_N]^\T$
初学者にとっては,Standardで示した8個の条件が唐突に現れるように感じるかもしれません。これらの条件を違和感のない形で導入するため,線形代数の多くの入門書では概ね次のような流れでベクトル空間を説明しているように思います。
このような説明を別の観点で捉えると,和とスカラー倍に関して$\Real^N$と同じ演算規則をもたせるために8個の条件の組が用いられているといえそうです。このように捉えたとき,「8個の条件の組」よりも「$\Real^N$と同じ演算規則をもつこと」のほうがより本質的であるような気にならないでしょうか?このように考えると,「$\Real^N$と同じ演算規則をもつこと」を素直に定義として採用したほうがわかりやすいかもしれません。
この記事におけるベクトル空間の定義を述べます。以降では,Standardで定めたベクトル空間を標準的な意味でのベクトル空間とよんで,これから紹介する定義と区別します。
準備として,線形写像と同型写像を次のように定義します。
和とスカラー倍を備えた2個の集合$X$と$Y$を考える。写像$f \colon X \to Y$が次の二つの条件を満たすとき,線形であるとよぶ。
(a) 和を保存:任意の$x, y \in X$について$f(x + y) = f(x) + f(y)$を満たす。
(b) スカラー倍を保存:任意の$a \in \Real, ~x \in X$について$f(ax) = a \cdot f(x)$を満たす。
なお,これらの式の左辺における$x + y$と$ax$は$X$で定められている和とスカラー倍で,右辺における$f(x) + f(y)$と$a \cdot f(x)$は$Y$で定められている和とスカラー倍です。
可逆な線形写像を同型写像とよぶ。また,和とスカラー倍を備えた2個の集合$X$と$Y$に対して$X$から$Y$への同型写像が存在するとき,$X$と$Y$は同型であるとよび$X \cong Y$と書く。
なお,写像$f \colon X \to Y$が可逆であるとは,合成$g \c f$と合成$f \c g$がともに恒等写像であるような写像 $g \colon Y \to X$($f$の逆写像とよぶ)が存在することをいいます。$f$の逆写像$g$はしばしば$f^{-1}$と表されます。
$N$次元ベクトル空間を次のように定義します。
和とスカラー倍を備えた集合$\V$を考える。ある自然数$N$に対して$\V \cong \Real^N$であるとき,$\V$を$N$次元ベクトル空間とよぶ。
この定義では,Standardで述べた8個の条件を用いる代わりに「$\Real^N$と同じ演算規則をもつこと」をより素直な形で述べているといえます。ただし,この定義ではRNで述べた特定の集合$\Real^N$を前提としており,標準的な定義と比べて長所・短所があると思います。
次の命題が成り立ちます。
和とスカラー倍を備えた集合$\V$と自然数$N$について,以下は同値である。
(A) $\V$は標準的な意味での$N$次元ベクトル空間である
(B) $\V$は$N$次元ベクトル空間である
(A)$\Rightarrow$(B):$\V$の基底$\{ u_n \}_{n=1}^N$を任意に選んだとき,写像$\V \ni \sum_{n=1}^N a_n u_n \mapsto [a_1,a_2,\dots,a_N]^\T \in \Real^N$が同型写像であることから容易にわかる(逆写像は$\Real^N \ni [a_1,a_2,\dots,a_N]^\T \mapsto \sum_{n=1}^N a_n u_n \in \V$である)。
(A)$\Leftarrow$(B):ベクトル空間の定義より,同型写像$\psi \colon \V \to \Real^N$が存在する。$\zero' \coloneqq [ 0, 0, \dots, 0]^\T \in \Real^N$とおいて$x,y,z \in \V$を任意に選んだとき,$\psi(x), ~\psi(y), ~\psi(z) \in \Real^N$は任意の$a,b \in \Real$に対して(Standardの条件(1)~(8)に対応する)次の性質を満たす。
(1') $\psi(x) + \zero' = \psi(x)$
(2') $\psi(x) + [\psi(y) + \psi(z)] = [\psi(x) + \psi(y)] + \psi(z)$
(3') $\psi(x) + \psi(y) = \psi(y) + \psi(x)$
(4') ($\psi(x)$毎に)$-\psi(x) \in \V$が存在して$\psi(x) + [-\psi(x)] = \zero'$
(5') $1 \cdot \psi(x) = \psi(x)$
(6') $a[b \cdot \psi(x)] = (ab) \cdot \psi(x)$
(7') $a[\psi(x) + \psi(y)] = a \cdot \psi(x) + a \cdot \psi(y)$
(8') $(a + b) \cdot \psi(x) = a \cdot \psi(x) + b \cdot \psi(x)$
これらの各式に対して両辺を$\psi(\cdots)$の形で表してから$\psi^{-1}$を施せば,条件(1)~(8)が得られる。たとえば,性質(1')の左辺は$\psi(x) + \psi(\zero) = \psi(x + \zero)$(ただし $\zero \coloneqq \psi^{-1}(\zero') \in \V$)であるため,$\psi^{-1}$を施すと$x + \zero$が得られる。また,右辺に$\psi^{-1}$を施すと$x$となるため,条件(1)の$x + \zero = x$が得られる。条件(2)~(8)も同様である。したがって,$\V$は標準的な意味での$N$次元ベクトル空間である。
この証明からわかるように,Proposedのようにベクトル空間を定めれば,$\Real^N$が満たしている性質(1')~(8')と同型写像$\psi$(およびその逆写像$\psi^{-1}$)によって,条件(1)~(8)が導かれます。
上の考え方は無限次元ベクトル空間に容易に拡張できます。まず,$\Real^N$を拡張した集合を次のように定めます。
集合$J$に対し,$J$から$\Real$への写像$s \colon J \ni j \mapsto s_j \in \Real$のうち$s_j \neq 0$を満たす$j \in J$が有限個であるようなものの全体から成る集合を$\Real^J$とする。ただし,$\Real^J$は次のように定められる和とスカラー倍を備えているものとする。
(i) 和:各$s,t \in \Real^J$を写像$s + t \colon J \ni j \mapsto s_j + t_j \in \Real$に写す($s + t \in \Real^J$である)。
(ii) スカラー倍:各$a \in \Real, ~s \in \Real^J$を写像$as \colon J \ni j \mapsto a \cdot s_j \in \Real$に写す($as \in \Real^J$である)。
次に,$\Real^J$と同型な集合としてベクトル空間を定めます。
和とスカラー倍を備えた集合$\V$を考える。ある集合$J$が存在して$\V \cong \Real^J$であるとき,$\V$をベクトル空間とよぶ。
和とスカラー倍を備えた集合$\V$について,以下は同値である。
(A) $\V$は標準的な意味でのベクトル空間である
(B) $\V$はベクトル空間である
(A)$\Rightarrow$(B):$\V$の基底$Y$を任意に選ぶ。
(A)$\Leftarrow$(B):命題1の証明と同様。
8個前後の条件の組を用いる標準的なベクトル空間の定義とは異なる方法として,「$\Real^N$と同型な集合」のようにベクトル空間を定義する方法を紹介しました。また,紹介した別定義が標準的な定義と同値であることを示しました。標準的な定義で現れる条件の組よりも「$\Real^N$と同じ演算規則をもつこと」のほうがベクトル空間の本質に近いと考える方にとっては,紹介した別定義のほうが納得感があるかもしれません。
紹介した別定義では,先に線形写像を定めてからベクトル空間を定めました。ベクトル空間と線形写像は切っても切り離せない関係にありますので,この別定義を知ることは線形代数を理解するために役立つのではないかと思います。