稀代の数学者ラマヌジャンに関する伝記として最も有名な作品『奇蹟がくれた数式』。恐らく数学の世界をあまりよく知らない人たちにとって、ラマヌジャンへの印象を決定付けるものとしてこの映画が果たす役割は大きいことでしょう。
私、子葉もこれまで
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ラマヌジャンは本当に何も知らなかったのか
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ラマヌジャンがハーディに宛てた手紙
という記事を筆頭にラマヌジャンに関する伝記のようなものを書いてきた人間として、この作品の存在は見過ごせないものがありました。
一体この作品はラマヌジャンの何を描き、何を大衆に伝えるのか。その真相を確かめるため、我々はAmazonの奥地へと向かった―――。
※特にネタバレとなるような話はしませんが、一応本作を未鑑賞の方はそれとなくご注意ください。
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歴史的な偉人の物語を映像として楽しむことができる、それだけで十分に価値のあることだと言えます。ましてや私にとっては種々の文面からさんざん想像を膨らませてきた話だったので、その空想に色が付けられていくのは小気味よいものがありました。
このような視点、逸話の映像化、つまりこの映画の個々のシーンに注目して観るとその出来映えは素晴らしいものではありました。しかしそのそれぞれのシーンを繋ぎ合わせて観ていくと何か歯切れが悪い。そんな少し勿体ない映画でもあったと私は思います。
この映画を見始めて10分程度で抱いた印象は「説明不足」でした。舞台となる時代や場所、宗教などに関する背景事情の多くが説明されないままストーリーが進み、各人物の言動の真意が観客に伝わりづらい造りになっていると感じました。
なので私は早々にして「この映画は雰囲気で楽しむものだ」と見方を変えることにしました。雰囲気という点で言えば個人的に好みの作風ではありました。
ラマヌジャンの人生に常にまとわりつく不安、焦燥、そして孤独。そのじっとりとした現実の薄ら寒さ。何か良いことが起き、何か悪いことが起き。その繰り返しの末に、遂にはぱったりと死んでしまう。そんな人生のあっけなさ。派手な演出には頼らず、等身大の人生を描き出しているような。
しかしその淡泊な味付けがゆえに映画的な盛り上がりには少々欠けており、先程の説明不足な点も合わせて考えるとこの映画は私の期待していた「ラマヌジャンのことをよく知らない人でも楽しめる作品」ではないのだと思いました。
ではラマヌジャンの周辺事情に多少詳しい人から見るとどうでしょうか。
私もそこまで詳しい人間ではないので、この映画への理解をより深めるべくその原作となった伝記『無限の天才 ―夭逝の数学者・ラマヌジャン』を手に取ってみました(ちなみにこの映画とその原作の原題はどちらも『The Man Who Knew Infinity』となっています)。
なるほどこれは素晴らしい。この本ではラマヌジャンの生年から晩年まで、そしてもう一人の主人公ハーディの生涯に至るまで、数学的内容こそ意図的にぼやかされているものの、非常に細かいことまで掘り下げられている。私が映画の中で説明不足だと感じた点もこの本にはその全てが書いてありました。
また逆にこの本に書かれていることをこの映画は忠実に再現しており、読めば読むほどこの映画は「ラマヌジャンという物語の映画化(二次創作)」ではなく「この伝記の映像化(三次創作)」に他ならないのだと感じさせられました。この本なくしてこの映画は語れない。それが私の至った結論でした。
皆さんもこの映画を鑑賞される際は書籍『無限の天才 ―夭逝の数学者・ラマヌジャン』も合わせて読んでみてはいかがでしょうか。
ラマヌジャンと言えばこの画像
に代表されるような平均的な体形のインド人男性を思い浮かべる人が大半かと思いますが、これは病床に伏し一旦帰郷する際に撮られたパスポート用の写真であり、そのため実は少しやつれています。
これは『無限の天才』を読んで初めて知ったことなのですが、本来のラマヌジャンはもっと"ふっくら"しており全盛期のときに撮られた写真がこちらのようです。
長年抱いてきたラマヌジャンへのイメージがひっくり返されてかなり衝撃を受けています。