これはある男がある名門大学の教授に向けて宛てた手紙の一部である。
I beg to introduce myself to you
(自己紹介をさせてください.)
as a clerk in the Accounts Department of the Port Trust at Madras on a salary of only £20 per annum.
(私はマドラス港湾信託局経理部の年俸20ポンドの事務官です.)
I am now about 23 years of age.
(年齢は23歳であります.)
I have had no University education but I have undergone the ordinary school course.
(大学には進学しませんでしたが, 普通教育は受けました.)
After leaving school I have been employing the spare time at my disposal to work at Mathmatics.
(学校を卒業して以来, これまで寸暇を惜しんで数学の研究に専念してまいりました.)
I have not trodden through the conventional regular course which is followed in a University course,
(大学の専門課程のような正規の高等教育を受けてはいませんが,)
but I am striking out a new path for myself.
(独学で新しい研究の道を切り拓いてまいりました.)
I have made a special investigation of divergent series in general
(私は主に発散級数の研究をしてまいりました.)
and the result I get are termed by the local mathmaticians as "starling".
(そして私の研究成果は, 当地の数学者たちから"驚嘆に値する"との評価をいただいております.)
彼は数学に対し高い関心を寄せていたが、研究を続けていくにはあまりにも貧しかった。
I am already a half starving man.
(私はすでに半分餓死しそうな男であります。)
To preserve my brains I want food
(頭脳を働かすためには食べなければなりません.)
and this is now my first consideration.
(そして, これが現在私の最大の関心事です.)
そんな境遇の中、彼は一縷の望みに賭けるように自身の発見した50を超える定理の数々を紙にしたため、3人の教授に送った。そしてそのうちの一通は彼の人生を、そして現在に至るまでの数学の歴史を大きく変えることとなった。
そんな彼の名前は、何を隠そう、かのシュリニヴァーサ・ラマヌジャンであった。
というわけでこの記事ではラマヌジャンがその人生を変えることとなった手紙の内容について紹介していこうと思います。
またこの記事は
日曜数学 Advent Calendar 2023
および
Mathlog Advent Calendar 2023
の22日目の記事となります。
12/22といえばかの稀代の数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの誕生日です(今年で生誕136周年)。
ラマヌジャンの肖像
ちなみに1222は私のMathlogのユーザーID (https://mathlog.info/users/1222)でもあります。運命的ですね。
インドに生まれ、イギリスに渡り、世界に名を轟かせた数学者ラマヌジャン。皆さんご存じの通り彼は神懸かりとも言える数学の才能を持ち、それを象徴するような逸話が現代でも数多く語り継がれています。しかし彼の人生は決して順風満帆と言えるものではありませんでした。特にイギリスへの切符を手にする以前、25歳の彼は絶望の最中にいました。
当時、彼はインドの数学誌への投稿により地元の数学者の中で有名人になっており、手に職もつき、理解ある協力者にも恵まれていました。しかし彼が研究を続けていくには貧困という絶対的な壁が立ちはだかっていました。当時の相場では年収40ポンドで生活費をギリギリ賄える程度であったらしいですが、ラマヌジャンの年収はわずか20ポンドでした。
それだけでなく大学に行こうにも数学以外への関心が極端に低いために奨学金を打ち切られてしまったり、学位試験に不合格になった過去もあります。またラマヌジャンに"よき協力者"がいたと言えども、そのうちの一人がある手紙にて「当地に在住の数学教授によりますと, 当地において彼の研究を検討できるものは皆無なのです.」と綴っていたように彼の"よき理解者"となり得る者はもはやインドにはいませんでした。そんな先の見えない生活にラマヌジャンは経済的にも精神的にも追い詰められていました。
そこで活路を切り開くべく、ラマヌジャンや彼の協力者たちはどうにかして本国(イギリス)の数学者にその才能を認めてもらえないかと手を尽くすことにしました。知識のある人間に認められれば当人から適切な指導を受けられるかもしれないし、また地位のある人間に認められれば大学や総督府から奨学金を得る助けになるかもしれない、というわけです。
そんな背景を考えるとラマヌジャンはその送り相手の気を引くためにそれはそれは吟味して筆を執らなければならなかったはずです。この記事ではそうして書かれたラマヌジャンの手紙に一体どんな数式が綴られていたのかを眺めていきたいと思います。
1913年初頭、当時25歳のラマヌジャンはケンブリッジ大学の3人の教授に手紙を出していました。そのうち2人はそれに興味を示しませんでしたが喜ばしいことに残る1人、G.H. ハーディはやがてその真価に気付き、すぐさま次の行動に移りました。その後のことについては下で触れるものとしてまずはハーディに宛てられた手紙の内容を見てみましょう。
ラマヌジャンの手紙はその手紙の趣旨を綴った1ページと彼の発見した公式を書き並べた11ページから構成されています。また後者の内容はIからXIまでの11節に分けられています。なお残念ながらその11ページのうち8ページ目と10ページ目は今では失われてしまっています。
最初の1ページについてはこの記事の冒頭で紹介した文から始まること以上に特に解説することもないのでその概要だけ述べておくと、「ガンマ関数の負値への拡張(解析接続)を基点とした研究をしているが理解者がいない」ということおよび「この手紙の内容に価値があると思っていただけたらそれを論文にしようと思っている」、「未熟者のため助言をいただけると幸いである」といったことが綴られています。
(余談) 冒頭で見たようにこの手紙の中でラマヌジャンは23歳であると自己紹介していますが、実際の年齢は25歳でした。これは若いと思わせた方が好意的に受け取ってもらえると考えたためか、あるいは単に自身の年齢を正確には把握してなかったためだと言われています。
何よりも注目したいのはその後11ページに及んで書き連ねられた公式の数々にあります。ラマヌジャンはこの手紙に着手した時点で既に何千もの公式を自身のノートブックに書き留めていましたが、11ページの手紙で紹介できるのは高々50~60個程度しかありません。ではラマヌジャンは一体その中のどれを選んでハーディに送ったのか、そしてその公式の価値を見抜いたハーディの目がいかに優れていたか、ということを実際の数式を眺めることで確かめていくこととしましょう。
なお一つ一つの式への深堀りは下に挙げる文献にて十二分に行われているので、ここでは数式を鑑賞することに重きを置こうと思います。またそういう趣旨から以下に提示するのは原文そのままの数式ではなく、独断により大なり小なり見た目を整形したものであることをここに断っておきます。
ラマヌジャンはハーディの著書"Orders of Infinity"に
ただしのオーダーはわからない。
とあるのを見て次のようなことを発見したと述べています。
・
・
前者には反例があります。実際
つまり
また後者の具体形はこの手紙では明かされませんでしたが第二の手紙にてその全貌を知ることができます。
またラマヌジャンは
ちなみにラマヌジャンは
を主張したわけですがこれは誤りであり、数年後ハーディとリトルウッドによりこの左辺は無限回符号を入れ替える、つまり振動するということが示されました。
ここからは公式がたくさん出てきます。
ちなみにラマヌジャンは通常の意味の等号と近似としての等号を特に書き分けず、同じ記号"
奇数個の相違なる素因数を持つ整数全体
を考える。このとき
が成り立つ。
約数関数
が成り立つ。ただし
この式は近似的にはあまり正確ではないが、漸近的には正しいものとなっています。
に対し
が成り立つ。ただし
ちなみに
と表されます。またある定数
となることが知られています。
とおくと
が成り立つ。また特殊値として
が成り立つ。
ちなみにこの公式はラマヌジャンがインドの数学誌に出題および解決した問題の一つでもありました。
偶数
は正確に求めることができる。
ラマヌジャンはその具体形を明示しませんでしたがこの積分は
とビネの公式
を組み合わせることで求められます。
以下
とします。
この式には誤りがあり、正しくは左辺の分母の
この式にも誤りがあり、正しくは右辺に
正の整数
は正確に求めることができる。
またしても具体形が示されていませんが、これはガンマ関数を用いて
と求まります。
とおくと
が成り立つ。
が成り立つ。
が成り立つ。
非負整数
が成り立つ。ただし
この式の最後の項は
と表せ、その誤差項はある
と表せます。
ここで
この式もインドの数学誌に投稿したものの一つでした。
ここで
ここで
この式の最後の項は
と表せます。
の冪級数展開における
に最も近い整数に等しい。
この結果は正確ではなく、後のラマヌジャンの論文にて
という式に修正されています。なお
が成り立つことに注意しましょう。
VIII節には楕円関数に関する内容が書かれていたそうですが、上で述べた通りこの手紙の8ページ目は失われているため具体的に何が書かれていたのかはわかりません。
以下、簡単のため連分数
のことを
のように表します。
とおいたとき
とおいたとき
とおいたとき
正の有理数
は正確に求めることができる。
上の4つの公式は
という関係式とモジュラー方程式の理論を用いることで示すことができます。
X節の内容もまたこの手紙の10ページ目が失われたことにより今では闇に包まれています。ちなみにいくつかの状況証拠からX節に書かれていたことの一つとして今日で言うところのロジャース・ラマヌジャン恒等式
があったのではないかと考察されています。
ラマヌジャンは自身の発見した発散級数に関するいくつかの定理により以下のようなことができると主張しています。
・その収束・発散に関わらず任意の級数に対して意味のある値を与えることができる。
・項の数が分数あるいは負数となる場合にも意味を与えることができる。
・それらの値を正確に、あるいは近似的に計算することができる。
相変わらずその理論の詳細は付記していませんが、具体例として以下のような公式を紹介しています。
ちなみに
と表せます。
これはラマヌジャンの理論が収束級数にも適用できる例として紹介されています。
以上がラマヌジャンがハーディに宛てた手紙の全容となります。
ここで一つ皆さんに聞いてみたいことがあります。もしこんな手紙が自身の元に送られてきたとしたら皆さんは何を思うことでしょうか。
一度ハーディの視点に立って考えてみましょう。するとこの手紙は
・送り主は見ず知らずの、大学レベルの教養も受けていない、貧しいインド人
・一切の説明もなく、正しいかどうかもわからない複雑な、あるいはデタラメとも思える数式の羅列
・発散級数の研究などという不可解な発言
等々、この限られた文脈からアヤしくない点を挙げろと言う方が難しいはずです。
実際ハーディ自身も最初はそう感じたことかと思います。しかし、幸運なことに、ハーディはこの手紙に記された数式の価値を見極めることができました。というのもラマヌジャンの送った数式の中には丁度ハーディ、およびその共同研究者であるJ.E. リトルウッドの専門に通ずるものがありました。それどころかかつてハーディが証明したものと全く同じ結果さえ含まれていました。
ハーディがその手紙の真価に気付いてからというもの、その後の行動は速いものでした。まずハーディはその手紙の内容を精査すべく知り合いの数学者にラマヌジャンの手紙を見せて回りました。その様子はラマヌジャンへの返答の手紙にて
私はあなたの結果のいくつか――特に楕円関数についての結果にはふれませんでした. これらについて私は, まったく言及しませんでした. というのも, この特別な問題に関しては, 私よりはるかに優れた専門家である他の数学者にそれらを渡してあるからです.
や同じくラマヌジャン宛ての3月26日付けの手紙にて
私はすでにあなたの手紙をリトルウッド氏, バーンズ博士, ベリー氏そしてその他の数学者に見せてあります.
とあったり、1940年にラマヌジャンに関する書類を整理していた際に書かれた手紙にて
思い当たる所は, 全部探してみましたが, 最初の手紙の途切れたページの痕跡は何も見つけることができませんでした. きっとなくなってしまったに違いありません. これはごく当然の事かもしれません. というのも, この手紙はラマヌジャンのことに関心をもったたくさんの人たちの間で廻し読みされたのですから.
とあることからも見て取れます。
またラマヌジャンの手紙に記された日付は1月16日であり、それからどの程度でハーディの元に届いたかはわかりませんが、少なくとも2月2日付けのとある手紙では次のような様子が綴られています。
ホールで会ったときのハーディとリトルウッドは大変興奮していました. というのも彼らは第2のニュートンを発見したというのです. その第2のニュートンというのは, マドラス在住のヒンドゥー教徒で年収20ポンド程の事務員です. 彼は手紙で独学で得たいくつかの結果をハーディに伝えてきたのですが, ハーディは, それがすばらしい結果でありしかも普通教育しか受けていない人間が発見したものとすればなおさらのことと考えています. ハーディは, ただちにこの男を当地に招聘したい旨を伝える手紙をインド局(Indian Ofiice)に送ったそうです.
これによるとハーディらはラマヌジャンのことを「第2のニュートン」と評し
Hady, and Littlewood in a state of wild excitement, ...
と形容されるほどの昂ぶりを見せていました。そして、気の早いことに、ラマヌジャンへの返答の手紙を書くよりもまず先に「この男をイギリスに招きたい」という旨の手紙をインドを管轄する機関に出していました。彼らがどれだけラマヌジャンのことを評価し、そして期待していたかがよくわかりますね。
ちなみにハーディのインド局への働き掛けにより2月3日付けのある手紙には「彼にケンブリッジで教育を受けさせることを検討することは, 価値あることと思います.」という提言が早くも挙がっていました。
その後ラマヌジャンへの返答は2月8日付けの手紙でなされました。その内容についても簡単に紹介しておきましょう。
ハーディはラマヌジャンの驚異的な才能を認めつつも、彼自身による証明を見ないことには話は始まらないと考えていました。実際この手紙には
のように証明の重要性を説く文言が何度も見られ、とにかく証明を見せてほしいという旨が強調されていることがわかります。
ハーディはラマヌジャンの手紙にあった定理の数々を大きく
の3つに分けてそれぞれ次のような具体例とコメントを残しています。
ここでは例えば公式14,23,30
などは留数定理やゼータ関数、オイラー・マクローリンの公式などのよく知られた手法により導けるものであり、公式26
に至ってはハーディ自身が証明したことのある既知の結果であると述べられています。その他にもベルヌーイ数に関するもの、発散級数や整数に関するものも既存の結果があると言及されています。
そしてこのような発見が既知の結果であったことへの失望は相当覚悟する必要があると忠告しつつも、高等な教育を受けていない人間がこのような結果を再発見したというのは大変誉れなことであり、もしラマヌジャンが既存のものとは独立の証明を与えているとするなら、それは大いに注目すべき業績であると評しています。
ここでは(2)に分類される結果として公式7,8,37,40
などが挙げられています。また公式36
の冪級数展開における
に最も近い整数に等しい。
に関しては
この定理について, 私と私の同僚であるリトルウッド氏——彼もまたあなたの研究に非常に興味を持っているのですが——は, これが成り立たないのではないかと考えています。
というコメントが添えられています。
ここには素数に関する結果が分類されています。
これについてはハーディの手紙に同封されたリトルウッドによる補足ノートにて深堀りされています。
リトルウッドはその昔、彼の師バーンズからリーマン予想の解決に挑戦するよう言われていたこともあり、リーマン予想と深い関わりを持つ素数の挙動についての話題には深い造詣がありました。そのため彼がラマヌジャンの手紙に興味を持ったのは必然的であったと言えましょう。
特にラマヌジャンが素数定理
の誤差
リトルウッドはそのことに言及した上で
素数の総数についての公式をお送りください. また, できるだけたくさんの証明をできるだけ早くお送りください.
とまくし立てるように要求しています。また他にも
といったことを問い質しています。
さて、このようにハーディの返した手紙にはとにかく「証明を見せろ!」というメッセージが込められていたわけですが、これに対してラマヌジャンはどのような回答を返したのでしょうか。それは2月27日付けの手紙にて明らかになります。
ラマヌジャンがハーディに宛てた二通目の手紙は10ページに及ぶものでした。最初の5ページは証明を黙していることへの弁明、そしてハーディやリトルウッドからの質問に対する回答に宛てられています。そして残りの5ページでは、前回の手紙の続きとでも言うかの如く、またしても彼の発見した定理の数々が書き連ねられています。
この記事の序盤で説明したように、ラマヌジャンは経済的にも精神的にも追い詰められていました。しかしハーディから好意的な返事が返ってきたことで彼は大変元気付けられていました。
私の研究を好意的に見てくださる先生の中に, 友を発見した思いであります. そのおかげで私は勇気づけられ, 私自身の進むべき道をさらに前進し続けることができるでしょう. (中略)
先生が1枚目に分類した結果は, まさに先生がおっしゃられたように, それらはすでに知られた結果であるか, もしくはすでに知られた結果から導かれるものなのですが, そのことが私がさらに前進するように勇気を与えてくれます.
またハーディの手紙は精神的な助けになるだけでなく、経済的な問題の解決にも大きな役割を果たしていました。
私は半分餓死しそうな男であります. 頭脳を働かすためには食べなければなりません. そして, これが現在私の最大の関心事です. 先生からの好意的な手紙はすべて, 私が大学あるいは総督府からの奨学金を獲得するための助けとなるでしょう.
ラマヌジャンはハーディの伝えんとしていたことはしっかりと理解していました。
先生の手紙には, 多くの箇所で厳密な証明が必要であることなどが書かれていて, さらに私から証明方法を伝えるようにとありました.
しかし、彼にも彼なりに思うところがありました。
もしこれを先生に伝えたならば, きっと先生は私の末路は精神病院であるとお考えになるでしょう. このようなことをくどくどと書く理由は, 単にたった1通の手紙で私が進めている研究の方針をお伝えしても, 私の証明方法をご理解いただけないことを納得していただくためであります. (中略)
そして, 現在私が望んでいるのは先生のような著名な教授に私のような者にもいくらかの価値があることをご理解いただくことであります. (中略)
私が証明方法について黙していることに対して, 厳しい判断を下されるかもしれません. しかしながら繰り返して申し上げたいのは, 私が進んできた過程を手短に述べてしまうと, 誤解をまねいてしまうと思うのであります. 私がそうすることを望んでいないのではありません. 手紙ですべてを説明するのは不可能ではないかと考えているからなのです. 証明方法を墓の中まで持っていくつもりは決してございません. 私の結果が先生のような著名な方からお認めていただけたならば, それらを論文として発表したいと考えています.
ラマヌジャンは過去に彼の協力者を通じてロンドン大学のM.J.M. ヒルという教授に自身の論文を見せたことがありました。しかしヒルから返ってきた言葉は「論文の記述に多くの穴や誤った理解が見られるため、適切な専門書をしっかり読み込んだ方がいい」といった旨のもので、彼に協力的な姿勢を示すものではありませんでした。
そういったこともありラマヌジャンは手紙という媒体で下手に説明を書いて誤解を招き、折角のハーディの好意を失望に変えてしまうことを恐れていたのだと思います。上で述べたようにラマヌジャンは既にハーディから勇気と奨学金を得るチャンスというこれ以上にないものを獲得していました。ともなれば一層、それを振り出しに戻してしまうようなことは絶対に避けたかったはずです。
彼が証明を黙していることへの弁明は、実に2ページに渡って行われていました。
さて物語的な解説についてはそこそこにして、あとは数式を眺めていきましょう。
第二の手紙の3,4ページには次のような主張が書いてあります。
これは以前 この記事 で紹介したことがあります。
ただし
とおいた。
以下簡単のため
とおきます。
同様に
これらの結果は算術級数の素数定理
から漸近的には正しい主張となっています。
この公式については上で述べたように全て誤りとなっています。
第二の手紙の5ページ目には次のようなことが書いてあります。
しかしこれらは依然として上でも述べた誤りを修正し切れてはいません。
6ページ以降に綴られている公式の数々には(1)から(23)までの番号が振られており、全体的に一貫性はありませんが、主に連分数とモジュラー方程式にまつわるものが多く掲載されています。
とおくと、
が成り立つ。特に
が成り立つ。
とおいたとき
ただし
ちなみにこの下段は
と表せます。
において
とおいたとき
とおいたとき
とおいたとき
とおいたとき
以下、簡単のため
とおきます。
および
とおくと
のいずれかのとき
のいずれかのとき
以上がラマヌジャンがハーディに送った第二の手紙の全容となります。
ここからは特に大きな出来事が起こるわけでもないので、その後のラマヌジャンがイギリスに渡るまでの流れについては手短にまとめておきます。
稀代の数学者、ラマヌジャン。現代では彼についての様々な逸話が語り継がれていますが、逆にその逸話以上の人物像が語られているところはほとんど見られません。
私は兼ねてよりそんな現状を残念に思っており、逸話以上のラマヌジャンの魅力を皆にも知ってもらいたい考えていました。そんなこともあって以前「ラマヌジャンは本当に何も知らなかったのか」という記事を書いたことがあります。そしてその調べ物の際に目に付いたのがラマヌジャンがハーディに宛てた手紙でした。
ラマヌジャンの人生を変えるターニングポイントとなったその手紙には、ラマヌジャンの境遇・人柄、ラマヌジャンが直々に選りすぐった公式の数々、ハーディの反応、そんなラマヌジャンを語る上で欠かせない要素が非常によく詰まっており、これを紹介しない手はないと思い立ってできたのがこの記事となります。
この記事を通してラマヌジャンという物語の魅力、あるいはラマヌジャンの編み出した数式の魅力を感じてもらえたなら幸いに思います。またラマヌジャンについてもっと知りたいと思われたなら、下に挙げるような文献を読んでみてはいかがでしょうか。
では。
今回の記事で紹介した手紙の内容および和訳は主に"Ramanujan: Letters and Commentary"および"ラマヌジャン書簡集"より引用したものとなります。前者はラマヌジャンに関係するありとあらゆる手紙を蒐集し、その全文を解説とともに紹介したものであり、後者はその邦訳となっています。
"ラマヌジャン書簡集"による和訳は素晴らしいものであり、それは我々にとって大いに助けになるものではありますが、数学的な文脈では少し不適当な訳がなされていることがあります。例えば原文では
all numbers containing an odd number of dissimilar prime divisors
(奇数個の異なる素因数を持つ数)
となっているところが
素因数がすべて相違なる任意の整数
と不可欠な仮定を欠いて訳されていたり、関数が増大するオーダー(order)のことを位数、モジュラー方程式(modular equation)のことを保型方程式と訳すなど現代で使われている言い回しとは異なる訳が宛てられていることがあります。
また物語的な側面としても、原文からこそ読み取れる情緒があることを忘れてはいけません。例えばこの記事の冒頭の一文も日本語では
自己紹介をさせてください.
とあっさりしたものになっていますが、原文では
I "beg" to introduce myself to you ...
とラマヌジャンの必死さが(彼の境遇を考えるとなおさら)伝わって来るものがあります。
そのため私のように数学的な内容をじっくり眺めたい人や細かい情緒まで味わいたい人は"Ramanujan: Letters and Commentary"と見比べながら読まれることをお勧めします。ただそういう人でなければ"ラマヌジャン書簡集"単体でも十分に楽しめますので興味があれば是非手に取ってみてはいかがでしょうか。
また今回の記事には「数式を鑑賞する」という目的もあったためその正確なステートメントを確認する必要がありました。それにはC.T. PreeceおよびG.N. Watsonによる14編の論文"Theorems Stated by Ramanujan (I)-(XIV)"が参考になりました。このシリーズではラマヌジャンがハーディに宛てた二通の手紙にある公式を、おそらく網羅的に、証明あるいは反証しています。もし今回の記事で気になった公式があれば、これらの論文をあたってみるといいと思います。
ついでに言うとラマヌジャンの手紙に書いてあることはラマヌジャンのノートブックにも書いてあるはずなのでB.C. Berndtによる"Ramanujan's Notebooks (Part I-V)"も参考になるかもしれません。証明については恐らく上の論文への参照が記されているだけの可能性が高いですが、ラマヌジャンが手紙に記さなかった同種の公式やそれらの繋がりについても詳細に解説されているので手紙の内容以上のことが知りたい人は是非こちらも読んでみてはいかがでしょうか。