前回は、四元数から構成されるリー群$\operatorname{Sp}(1)$が行列表現を通して$\operatorname{SU}(2)$と同型になること、そして共役作用$qxq^{-1}$によって3次元の回転群$\operatorname{SO}(3)$の二重被覆となることを見ました。7shi-lie2
今回は、この二重被覆の関係を一般の次元へ広げるスピン群と、それを構成する枠組みであるクリフォード代数を導入し、四元数の背後にある構造を明らかにします。
シリーズ: リー群・リー代数の初歩
前回までの内容を前提とします。要点をまとめます。
前回、$\operatorname{SU}(2)$の元が作用する対象として、2種類のものが登場していました。1つは共役作用$qvq^{-1}$で両側から挟まれる純虚四元数(3次元ベクトル)、もう1つは「$\operatorname{SO}(2)$の複素化」の視点で行列が片側から掛かる複素ベクトル$(r, s) \in \mathbb{C}^2$です。今回の出発点は後者です。
共役作用では、左右からの半角$\theta/2$の作用が合わさって角度$\theta$の回転になりました。一方、複素ベクトルは作用を1回しか受けないため、半角$\theta/2$がそのまま現れます。$q = \exp(i\theta/2)$に対応する行列の作用は次のようになります。
$$ \begin{pmatrix} e^{i\theta/2} & 0 \\ 0 & e^{-i\theta/2} \end{pmatrix} \begin{pmatrix} r \\ s \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} e^{i\theta/2}\, r \\ e^{-i\theta/2}\, s \end{pmatrix} $$
回転角$\theta$を$0$から$2\pi$まで動かして回転を1周させると、成分の位相は$\pm\pi$までしか進まず、ベクトルは$-1$倍になります。元に戻るには$\theta = 4\pi$、つまり回転2周分が必要です。このように、回転の半分の角度で変換され、回転1周で符号が反転し、2周ではじめて元に戻る対象をスピノルと呼びます。
前回、$q$と$-q$が同じ回転を与えること(二重被覆)を見ましたが、スピノルの行き先は$q$と$-q$で$-1$倍だけ異なります。つまり、3次元ベクトルには区別できない$q$の符号の情報を、スピノルは余さず受け取ります。
前回のremで触れた「電子は360度回転しても元に戻らず、720度回転してはじめて元に戻る」の実体がこのスピノルです。電子のスピンの状態は、2成分の複素ベクトルとして$\operatorname{SU}(2)$の作用を受けます。
半角で変換されるスピノルと、全角で回転する3次元ベクトルは、どうつながっているのでしょうか。実は、3次元ベクトルはスピノルから組み立てることができます。
$\operatorname{SU}(2)$のユニタリ変換は、作用を受けるスピノルのノルム(長さ)を保つため、$|\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1$と正規化した単位スピノルを考えます。
$$ \omega = \begin{pmatrix} \alpha \\ \beta \end{pmatrix} \quad (|\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1) $$
左からエルミート共役$\omega^\dagger$を$\omega$に掛ければ、結果は1成分となります。これを自身との内積と呼び、ノルムの2乗が得られます。
$$ \omega^\dagger\omega = \begin{pmatrix} \alpha^* & \beta^* \end{pmatrix}\begin{pmatrix} \alpha \\ \beta \end{pmatrix} = \alpha^*\alpha + \beta^*\beta = |\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1 $$
自身との内積がノルムの2乗に対応することは、通常のベクトルと同じです。
順序を逆にして、$\omega$に右から$\omega^\dagger$を掛ければ、2×2行列ができます。これを自身との外積と呼びます。
$$ \omega\omega^\dagger = \begin{pmatrix} \alpha \\ \beta \end{pmatrix}\begin{pmatrix} \alpha^* & \beta^* \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} \alpha\alpha^* & \alpha\beta^* \\ \beta\alpha^* & \beta\beta^* \end{pmatrix} $$
ここでの外積 (outer product) は、縦ベクトルと横ベクトルから行列を作る演算で、テンソル積の特殊な場合です。四元数に現れた外積(ベクトル積またはクロス積)とは別物です。スピノルにはベクトル積が定義されないため、同じ「外積」という名称を転用しても区別できます。
この外積の変換性が鍵です。スピノルが$\omega \mapsto U\omega$と片側から作用を受けると、外積は
$$
\omega\omega^\dagger \mapsto (U\omega)(U\omega)^\dagger = U\,\omega\omega^\dagger\,U^\dagger = U\,\omega\omega^\dagger\,U^{-1}
$$
と変換されます(最後の等号はユニタリ性$U^\dagger = U^{-1}$によります)。両側から挟むように仕組んだわけではないのに、外積は自動的に共役作用の形で変換されるのです。前回は「左右から挟む」形を天下りに導入しましたが、それは片側作用を受けるスピノルの外積として自然に生じる形だったことになります。
次に、外積の中身を調べます。$\omega\omega^\dagger$はエルミート行列で、トレースは$|\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1$、すなわち先に見た内積と一致します。成分を書き直すため、実数のパラメーター$n_1, n_2, n_3$を次のように定義します。
$$ n_1 + in_2 := 2\alpha^*\beta, \quad n_3 := |\alpha|^2 - |\beta|^2 $$
これによって成分を書き直すと、外積は4つの行列に分解されます。
$$ \begin{aligned} \omega\omega^\dagger &= \frac{1}{2}\begin{pmatrix} 1 + n_3 & n_1 - in_2 \\ n_1 + in_2 & 1 - n_3 \end{pmatrix} \\ &= \frac{1}{2}\left\{ I + n_1 \begin{pmatrix} 0 & 1 \\ 1 & 0 \end{pmatrix} + n_2 \begin{pmatrix} 0 & -i \\ i & 0 \end{pmatrix} + n_3 \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & -1 \end{pmatrix} \right\} \end{aligned} $$
単位行列$I$のほかに現れた3つの行列がパウリ行列$\sigma_1, \sigma_2, \sigma_3$です。
$$ \sigma_1 = \begin{pmatrix} 0 & 1 \\ 1 & 0 \end{pmatrix}, \quad \sigma_2 = \begin{pmatrix} 0 & -i \\ i & 0 \end{pmatrix}, \quad \sigma_3 = \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & -1 \end{pmatrix} $$
パウリ行列によって外積を表記します。
$$ \omega\omega^\dagger = \frac{1}{2}(I + n_1\sigma_1 + n_2\sigma_2 + n_3\sigma_3) $$
外積はエルミート行列でトレースが$1$に固定されているため、実質的な自由度を担うのはトレース$0$のエルミート行列の部分です。パウリ行列は、そのトレース$0$のエルミート行列の基底として、スピノルの外積から取り出されます。
$\frac{1}{2}$を括り出した括弧内の係数$(n_1, n_2, n_3)$の長さを計算すると
$$ n_1^2 + n_2^2 + n_3^2 = 4|\alpha|^2|\beta|^2 + (|\alpha|^2 - |\beta|^2)^2 = (|\alpha|^2 + |\beta|^2)^2 = 1 $$
となり、単位スピノルの外積から3次元空間の単位ベクトル$(n_1, n_2, n_3)$が得られます。
$\alpha = \cos\frac{\theta}{2},\ \beta = \sin\frac{\theta}{2}\,e^{i\phi}$と置けば、$n_1 + in_2 = 2\alpha^*\beta,\ n_3 = |\alpha|^2 - |\beta|^2$より
$$
\begin{pmatrix} n_1 \\ n_2 \\ n_3 \end{pmatrix}
= \begin{pmatrix}
\mathrm{Re}(2\alpha^*\beta) \\
\mathrm{Im}(2\alpha^*\beta) \\
|\alpha|^2 - |\beta|^2
\end{pmatrix}
= \begin{pmatrix}
2\sin\frac{\theta}{2}\cos\frac{\theta}{2}\cos\phi \\
2\sin\frac{\theta}{2}\cos\frac{\theta}{2}\sin\phi \\
\cos^2\frac{\theta}{2} - \sin^2\frac{\theta}{2}
\end{pmatrix}
= \begin{pmatrix}
\sin\theta\cos\phi \\
\sin\theta\sin\phi \\
\cos\theta
\end{pmatrix}
$$
という球面座標となり、任意の単位ベクトルがスピノルから得られることも分かります。
前節で見たように、スピノルに$U$が作用すると、外積は共役作用で変換されます。
$$
\omega\omega^\dagger \mapsto U\,\omega\omega^\dagger\,U^{-1} = U\,\omega\omega^\dagger\,U^\dagger
$$
この共役作用は、外積の形を特徴づけていた2つの性質を保ちます。まず、エルミート共役をとっても
$$
(U\,\omega\omega^\dagger\,U^\dagger)^\dagger = U\,(\omega\omega^\dagger)^\dagger\,U^\dagger = U\,\omega\omega^\dagger\,U^\dagger
$$
と元に戻るため、エルミート性が保たれます。また、トレースの巡回性より
$$
\operatorname{tr}(U\,\omega\omega^\dagger\,U^{-1}) = \operatorname{tr}(\omega\omega^\dagger\,U^{-1}U) = \operatorname{tr}(\omega\omega^\dagger) = 1
$$
とトレースも変わりません。エルミート行列は$I$とパウリ行列の実係数の組み合わせで書け、トレース$1$という条件が$I$の係数を$\frac{1}{2}$に固定するため、変換後の外積は再び
$$
\frac{1}{2}(I + n_1'\sigma_1 + n_2'\sigma_2 + n_3'\sigma_3)
$$
の形に書けます。こうして$(n_1, n_2, n_3) \mapsto (n_1', n_2', n_3')$という実3次元空間の線形変換が引き起こされます。さらに、トレース$0$の部分の行列式は
$$ \det(n_1\sigma_1 + n_2\sigma_2 + n_3\sigma_3) = \det\begin{pmatrix} n_3 & n_1 - in_2 \\ n_1 + in_2 & -n_3 \end{pmatrix} = -(n_1^2 + n_2^2 + n_3^2) $$
とベクトルの長さの情報を持ち、共役作用は行列式を変えない($\det(UAU^{-1}) = \det A$)ため、この変換は長さを保つ3次元の回転です。
冒頭で導入した$q$に対応する行列をスピノルに掛けると、スピノルの成分はそれぞれ逆方向に位相が掛かります。
$$ \begin{pmatrix} e^{i\theta/2} & 0 \\ 0 & e^{-i\theta/2} \end{pmatrix} \begin{pmatrix} \alpha \\ \beta \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} e^{i\theta/2}\alpha \\ e^{-i\theta/2}\beta \end{pmatrix} $$
変換後のスピノルで外積を計算すると
$$
\begin{pmatrix} e^{i\theta/2}\alpha \\ e^{-i\theta/2}\beta \end{pmatrix}
\begin{pmatrix} e^{-i\theta/2}\alpha^* & e^{i\theta/2}\beta^* \end{pmatrix}
= \begin{pmatrix} |\alpha|^2 & e^{i\theta}\,\alpha\beta^* \\ e^{-i\theta}\,\alpha^*\beta & |\beta|^2 \end{pmatrix}
$$
となります。対角成分では位相が相殺して不変となる一方、非対角成分ではエルミート共役による位相の反転で半角が2つ揃い、全角$\theta$が現れます。$n_1, n_2, n_3$の定義と見比べると
$$
n_1 + in_2 \mapsto e^{-i\theta}(n_1 + in_2), \quad
n_3 \mapsto n_3
$$
となります。$\sigma_3$の方向を軸として、$\sigma_1, \sigma_2$が張る平面が角度$-\theta$だけ回転します。スピノルの成分は半角$-\theta/2$ずつしか動いていませんが、外積は$\omega$と$\omega^\dagger$の両方を通して作用を2回受けるため全角$-\theta$になります(この符号の由来は後述します)。前回「半角と倍加」として見た構造が、スピノルの言葉で再現されました。
二重被覆もこの図式に現れます。$U$と$-U$はスピノルの行き先を$-1$倍だけ変えますが、外積では$(-U)\,\omega\omega^\dagger\,(-U)^{-1} = U\,\omega\omega^\dagger\,U^{-1}$と相殺されるため、同じ回転を与えます。さらに一般に、スピノル全体の位相$\omega \mapsto e^{i\varphi}\omega$は外積で相殺されるため、スピノルから単位ベクトルへの対応は位相の分だけ多対1です。
量子力学では、スピンや量子ビットのような2状態系の状態がこのスピノル$\omega$で表され、$(n_1, n_2, n_3)$はブロッホベクトル、$\omega\omega^\dagger$は密度行列と呼ばれます。状態全体の位相が観測量に現れないという量子力学の原則は、外積での位相の相殺に対応します。7shi-bloch
また、単位スピノル全体$S^3$から単位ベクトル全体$S^2$への多対1の対応は、ホップファイブレーションとして知られる構造です。7shi-h
パウリ行列に$i$を掛けると
$$ i\sigma_1 = \begin{pmatrix} 0 & i \\ i & 0 \end{pmatrix}, \quad i\sigma_2 = \begin{pmatrix} 0 & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix}, \quad i\sigma_3 = \begin{pmatrix} i & 0 \\ 0 & -i \end{pmatrix} $$
となり、前回定めた四元数の基底の行列表現と一致します。7shi-lie2
$$ i \Leftrightarrow i\sigma_3, \quad j \Leftrightarrow i\sigma_2, \quad k \Leftrightarrow i\sigma_1 $$
四元数の行列表現の取り方は1通りではなく、文献によって異なる流儀があります。ここでは前回の記事で定めた表現に合わせています。この対応ではパウリ行列の添字が$\sigma_3, \sigma_2, \sigma_1$と逆順に並ぶことに注意してください。
この対応で$\sigma_3$の軸は四元数の$i$に対応するため、先ほどの例($\sigma_3$を軸とする角度$\theta$の回転)は、前回計算した$i$軸周りの回転$\rho_q(j) = j\cos\theta + k\sin\theta$と同じものです。
また、前回リー群の条件から求めた$\mathfrak{su}(2)$の一般形は、パウリ行列で次のように書けます。
$$ A = \begin{pmatrix} ix & y + iz \\ -y + iz & -ix \end{pmatrix} = x(i\sigma_3) + y(i\sigma_2) + z(i\sigma_1) = i(z\sigma_1 + y\sigma_2 + x\sigma_3) $$
つまり$\mathfrak{su}(2)$の反エルミート行列は「トレース$0$のエルミート行列の$i$倍」であり、スピノルの外積から取り出したパウリ行列は、$i$倍を除いて$\mathfrak{su}(2)$の基底そのものです。係数が$z, y, x$の順に並ぶのは、行列表現を定める際に四元数の$i$を対角($\sigma_3$の方向)に割り当てたためです。
「反エルミートはエルミートの$i$倍」は、「純虚数は実数の$i$倍」の行列版です。
物理学(特に量子力学)では、オブザーバブル(観測可能量)をエルミート行列($H^\dagger = H$)で表すという要請があり、パウリ行列は本文とは逆向きに導出されるのが標準的です。すなわち、$\mathfrak{su}(2)$の反エルミート行列から$i$をくくり出し
$$ A = \begin{pmatrix} ix & y + iz \\ -y + iz & -ix \end{pmatrix} = i \begin{pmatrix} x & z - iy \\ z + iy & -x \end{pmatrix} $$
右辺のエルミート行列を分解して、その基底としてパウリ行列を得ます。
$$ \begin{pmatrix} x & z - iy \\ z + iy & -x \end{pmatrix} = z\sigma_1 + y\sigma_2 + x\sigma_3 $$
このように、パウリ行列は四元数由来の$\mathfrak{su}(2)$の一般形からも導出できますが、本稿では、作用を受ける側であるスピノルから構成する道筋を採用しました。
この「パウリ行列に$i$を掛けると四元数の基底に対応する」ことには、別の見方があります。パウリ行列同士の積を計算すれば
$$ \sigma_1\sigma_2 = i\sigma_3, \quad \sigma_2\sigma_3 = i\sigma_1, \quad \sigma_3\sigma_1 = i\sigma_2 $$
となり、$i\sigma_a$は残り2つのパウリ行列の積であることが分かります。これによって、四元数の基底を因数分解したのがパウリ行列だと解釈できます。
$$ i \Leftrightarrow \sigma_1\sigma_2, \quad j \Leftrightarrow \sigma_3\sigma_1, \quad k \Leftrightarrow \sigma_2\sigma_3 $$
ここで、パウリ行列の積として表したときの因子の個数をグレードと呼びます。単位行列$I$はグレード$0$、単独のパウリ行列$\sigma_1, \sigma_2, \sigma_3$はグレード$1$、四元数の虚数単位$i, j, k$に対応するのはグレード$2$の元です。パウリ行列と四元数は似ていますが、住んでいる階層(グレード)が違うわけです。このグレードによる分類はクリフォード代数と呼ばれる枠組みに由来します。
クリフォード代数では、グレードに幾何学的な解釈を与えます。パウリ行列の代数的な性質を確認すると
$$ \sigma_a^2 = I, \quad \sigma_a\sigma_b = -\sigma_b\sigma_a \ (a \ne b) $$
が成り立ちます。$\sigma_a^2 = I$は「長さが$1$」であること、後者の反交換性は「互いに直交する」ことの表現だと解釈します。するとグレード$1$のパウリ行列は、3次元空間の互いに直交する基底ベクトル($x, y, z$軸方向の単位ベクトル)の行列表現だとみなせます。実際、スピノルの外積では、3次元の単位ベクトル$(n_1, n_2, n_3)$がパウリ行列の係数として現れていました。
反交換関係$\sigma_a\sigma_b=-\sigma_b\sigma_a$の両辺に右から$\sigma_b$を掛けると
$$
\sigma_a=-\sigma_b\sigma_a\sigma_b
$$
となり、トレースの巡回性$\operatorname{tr}(ABC)=\operatorname{tr}(BCA)$より$\operatorname{tr}(\sigma_a)=-\operatorname{tr}(\sigma_a)=0$が従います。このようにパウリ行列がトレース$0$であることは、反交換性から説明できます。
行列表現における単位行列$I$を$1$に対応付ければ、一般に、クリフォード代数は自乗$+1$の生成元$p$個と自乗$-1$の生成元$q$個から生成され、$C\ell_{p,q}(\mathbb{R})$と表記されます。パウリ行列はいずれも自乗$+1$なので$p=3, q=0$、つまりパウリ行列が生成するのは$C\ell_{3,0}(\mathbb{R})$です。
各基底の2乗が$I$になることは、同じ基底が2つ並べば消えることを意味します。したがって、独立な基底$\sigma_1, \sigma_2, \sigma_3$の積として表せるグレードは、基底の個数である$3$が上限です。実際にグレードごとに整理すると、次のようになります。
| グレード | 元 | 個数 | 分類 |
|---|---|---|---|
| 0 | $I$ | 1 | スカラー |
| 1 | $\sigma_1, \sigma_2, \sigma_3$ | 3 | ベクトル |
| 2 | $\sigma_2\sigma_3, \sigma_3\sigma_1, \sigma_1\sigma_2$ | 3 | 2ベクトル(擬ベクトル) |
| 3 | $\sigma_1\sigma_2\sigma_3$ | 1 | 3ベクトル(擬スカラー) |
グレード$3$の元は$\sigma_1\sigma_2\sigma_3 = (\sigma_1\sigma_2)\sigma_3 = i\sigma_3\sigma_3 = iI$となり、単位行列の$i$倍に一致します。各グレードの次元を合計すると$1+3+3+1=8$で、$2\times2$複素行列全体の実次元と一致します。
クリフォード代数の最大の特徴は、このベクトル同士の掛け算を幾何学的に意味づけることです。ベクトルを2つ掛け合わせたグレード$2$の元は、その2つのベクトルが張る平面(2ベクトル)を表します。
たとえば、$\sigma_1, \sigma_2$が張る平面上の2つのベクトル$x_1\sigma_1+y_1\sigma_2$と$x_2\sigma_1+y_2\sigma_2$の積を計算すると
$$ (x_1\sigma_1+y_1\sigma_2)(x_2\sigma_1+y_2\sigma_2) = (x_1x_2+y_1y_2)I + (x_1y_2-y_1x_2)\sigma_1\sigma_2 $$
グレード$0$の係数$x_1x_2+y_1y_2$は内積、グレード$2$の係数$x_1y_2-y_1x_2$は2つのベクトルが張る平行四辺形の符号付き面積です。2ベクトルとは、この符号付き面積を担う代数的な実体だと言えます。
純虚四元数の積$uv=-u \cdot v + u \times v$とは異なり、内積は符号反転しません。
ここで得られた2本のベクトル(グレード$1$)から2ベクトル(グレード$2$)を作る演算は、ウェッジ積($\wedge$)と呼ばれ、3次元の外積(ベクトル積)の一般化にあたります。
ウェッジ積はベクトル積の一般化であるため、これも広義には外積と呼ばれることがあります。英語ではウェッジ積の意味での外積は exterior product、スピノルの外積は outer product と呼ばれ、区別されます。
3次元では平面とその法線ベクトルが1対1に対応します。ベクトル積が「2本のベクトルから直交する1本のベクトルを作る」という3次元特有の演算であるのも、この対応によるものです。これは$n$次元の座標平面の数$n(n-1)/2$がベクトルの次元$n$と一致するのが$n = 3$のみであるという特殊事情によります。ウェッジ積はこの置き換えをせず、平面(2ベクトル)そのものを結果として返すため、任意の次元に一般化できます。
このベクトルと法線ベクトルとの同一視は鏡映のもとで破綻します。例えば$\sigma_1 \mapsto -\sigma_1$($\sigma_2, \sigma_3$は不変)という鏡映を考えると、ベクトル$\sigma_1$は符号を反転しますが、2ベクトル$\sigma_2\sigma_3$は不変のままです。法線ベクトルとして同一視した2ベクトルは、ベクトルとは逆の符号変化を示すわけです。この性質から、2ベクトルは擬ベクトル(軸性ベクトル)と呼ばれます。
物理学に現れる角運動量や磁場が擬ベクトルに分類されるのは、これらがベクトル積(実質的には2ベクトル)から作られる量だからです。
同じ考え方は3つのベクトルにも拡張できます。$v_a = x_a\sigma_1+y_a\sigma_2+z_a\sigma_3\ (a=1,2,3)$の積$v_1v_2v_3$を展開すると、グレード$1$の項とグレード$3$の項が現れますが、3本のベクトルが張る最高次の部分であるグレード$3$の係数は、2ベクトルの場合と同様にウェッジ積の多重線形性・反対称性から、成分を並べた行列の行列式に一致し
$$
v_1\wedge v_2\wedge v_3 = \det\begin{pmatrix} x_1&x_2&x_3\\y_1&y_2&y_3\\z_1&z_2&z_3\end{pmatrix}\sigma_1\sigma_2\sigma_3
$$
と書けます。これは3本のベクトルを列に並べた行列の行列式そのものであり、行列式の幾何学的な意味である、3つのベクトルが張る平行六面体の符号付き体積と一致します。2ベクトルが平行四辺形の符号付き面積を担ったのと同じ関係が、1つ上のグレードでも成り立つわけです。
3次元空間では基底ベクトルが$\sigma_1, \sigma_2, \sigma_3$の3本しかないため、グレード$3$がとりうる最高のグレードです。これより高いグレードの元は存在せず、グレード$3$の空間は$\sigma_1\sigma_2\sigma_3 = iI$の実数倍という1次元の部分空間に潰れます。このように、空間の次元と一致する最高グレードの元を3ベクトルと呼びます。3ベクトルはスカラー同様に1次元の自由度しか持ちませんが、鏡映のような向きを反転させる変換のもとで符号が変わる点でスカラーと区別され、擬スカラーとも呼ばれます。
2ベクトルからは、回転を生成する元である回転子が2通りの方法で作れます。
単位2ベクトル$B$($x_1\sigma_1+y_1\sigma_2$と$x_2\sigma_1+y_2\sigma_2$のウェッジ積を面積$1$に正規化したもの)は、反交換性から
$$ B^2 = (x\sigma_1+y\sigma_2)(x\sigma_1+y\sigma_2) = -I \quad (x^2+y^2=1) $$
のように$2$乗が$-I$になり、虚数単位と同じ振る舞いをします。したがって、四元数のときと同じ形の指数関数が定義できます。
$$ \exp(\varphi B) = \cos\varphi\, I + \sin\varphi\, B $$
こうして回転子が得られます。これは四元数の指数関数$\exp(\theta n)$の完全な類似物で、$B$が張る平面内で角度$2\varphi$の回転を引き起こします(半角と倍加の関係は前節までと同じです)。
スカラー$I$の実数倍と単位2ベクトル$B$の実数倍が張る部分空間$\{aI+bB \mid a,b\in\mathbb{R}\}$は、$B^2=-I$により積について閉じており、$I\leftrightarrow 1$、$B\leftrightarrow i$の対応で
$$
aI+bB \cong a + b i \in \mathbb{C}
$$
となります。この中で回転子$\exp(\varphi B)$は複素数の言葉での$\exp(i\varphi)$そのものであり、単位円周上を動く点と同じ構造です。3次元以上の空間では回転子全体のなすリー群は複素数体とは一致しませんが、それは$B$が空間内で向きを変えられる自由度を持つためです。$B$を1つに固定してしまえば、回転はその平面の中で閉じているため、複素数との同型が現れます。回転が常に2次元平面の中で完結するという事実が、回転子と複素数を結びつけている本質です。
2つの単位ベクトルの積を使う方法もあります。角度$\varphi$をなす単位ベクトル$u, v$の積を計算すると、内積(グレード$0$)とウェッジ積(グレード$2$)に自動的に分解されます。
$$ uv = u\cdot v + u\wedge v = \cos\varphi\, I + \sin\varphi\, B $$
ここで$B$は$u, v$が張る平面の単位2ベクトルです。つまり$uv$は、$1$つ目の方法で作った回転子$\exp(\varphi B)$とちょうど一致します。幾何学的には、法線$u, v$を持つ2枚の鏡による鏡映を合成すると、なす角$\varphi$の2倍の回転になるという古典的な事実に対応しており、ベクトルの積が回転子になるのは偶然ではなく、鏡映の合成そのものだと解釈できます。
この鏡映の合成から、回転子が実際にベクトルへどう作用するかが分かります。単位ベクトル$n$による鏡映($n$に垂直な面への鏡映)は、$n$方向の成分だけ符号を反転させる変換で、$x \mapsto -nxn$と書けます7shi-mir。$u$による鏡映に続けて$v$による鏡映を合成すると
$$ x \mapsto -v(-uxu)v = (vu)\,x\,(uv) $$
となります。$u, v$は単位ベクトルなので$(uv)(vu) = u(vv)u = I$より$vu = (uv)^{-1}$、つまり回転子$R = uv$を用いて次のように書けます。
$$ x \mapsto R^{-1}xR $$
$R = \exp(\varphi\sigma_1\sigma_2) = \cos\varphi\,I+\sin\varphi\,\sigma_1\sigma_2$として実際に計算すると、反交換性$\sigma_1\sigma_2\sigma_1=-\sigma_2$を使って
$$
R^{-1}\sigma_1 R = \cos2\varphi\,\sigma_1+\sin2\varphi\,\sigma_2
$$
となり、角度$2\varphi$の回転が確認できます。一方、$R$と$R^{-1}$の並びを逆にして$R\sigma_1R^{-1}$を計算すると
$$
R\sigma_1R^{-1} = \cos2\varphi\,\sigma_1-\sin2\varphi\,\sigma_2
$$
と符号が反転し、角度$-2\varphi$の回転になってしまいます。
四元数の共役作用$qxq^{-1}$は$q$を左、$q^{-1}$を右に置きますが、回転子による回転$R^{-1}xR$はその逆で、$R^{-1}$を左、$R$を右に置きます。$\varphi=\theta/2$とすると、$R=\exp(\varphi\sigma_1\sigma_2)$は$\sigma_1\sigma_2=i\sigma_3$より、スピノルの外積の節で扱った$q=\exp(i\theta/2)$に対応する行列と同じ元です。あの節では外積の変換則$U(\cdot)U^{-1}$($U$を左に置く並び)にそのまま代入していたため、回転子としての正しい並び順$R^{-1}xR$とは逆向きの$R\sigma_1R^{-1}$を計算していたことになり、全角$-\theta$という符号が現れたのはこの並び順の違いによるものです。
この2通りの構成は、リー群とリー代数の関係そのものです。単位2ベクトル$B$の実数倍$\varphi B$は、恒等変換$I$からの微小回転を生み出す接ベクトルであり、リー代数の元にあたります。指数関数$\exp(\varphi B)$はこの接ベクトルを群の元へ写す写像で、$\varphi$を動かして得られる回転子全体はノルム$1$の元がなすリー群を構成します。前提知識で確認した「純虚四元数がリー代数$\mathfrak{sp}(1)$、単位四元数がリー群$\operatorname{Sp}(1)$」という対応が、ここでは「2ベクトルがリー代数、回転子がリー群」という形でクリフォード代数の中に再現されているわけです。
前節の回転子$\cos\varphi\,I+\sin\varphi\,B$は、グレード$0$(スカラー)とグレード$2$(2ベクトル)だけの線形結合でした。偶数個の因子同士の積はまた偶数個の因子になるため、この2つのグレードを合わせた部分空間は積について閉じており、偶部分代数と呼ばれる代数構造をなします。3次元のクリフォード代数の偶部分代数は$I, \sigma_1\sigma_2, \sigma_3\sigma_1, \sigma_2\sigma_3$が張る4次元の代数で、回転子はすべてこの中に住んでいます。
単位2ベクトルである$\sigma_1\sigma_2$も、前節の関係$B^2=-I$をそのまま満たします。
$$ (\sigma_1\sigma_2)^2 = \sigma_1\sigma_2\sigma_1\sigma_2 = -\sigma_1\sigma_1\sigma_2\sigma_2 = -I $$
四元数の虚数単位と同じ2乗の性質を持つわけです。パウリ行列を空間の「ベクトル(線)」だとすれば、四元数の$i, j, k$は「平面」を表していたことになります。実際、偶部分代数はこの3つの基底によって四元数と完全に同型になります。
この対応のもとで、四元数の乗積規則がそのまま偶部分代数の中の関係として書き下せます。7shi-lie2
$$ \begin{aligned} ij=-ji=k\quad &\Leftrightarrow \quad (\sigma_1\sigma_2)(\sigma_3\sigma_1) = -(\sigma_3\sigma_1)(\sigma_1\sigma_2) = \sigma_2\sigma_3 \\ jk=-kj=i\quad &\Leftrightarrow \quad (\sigma_3\sigma_1)(\sigma_2\sigma_3) = -(\sigma_2\sigma_3)(\sigma_3\sigma_1) = \sigma_1\sigma_2 \\ ki=-ik=j\quad &\Leftrightarrow \quad (\sigma_2\sigma_3)(\sigma_1\sigma_2) = -(\sigma_1\sigma_2)(\sigma_2\sigma_3) = \sigma_3\sigma_1 \end{aligned} $$
いずれもパウリ行列の反交換関係だけから計算して確かめられ、四元数の乗積規則と1対1に一致します。この対応のもとで、偶部分代数のうちノルム$1$の元全体(前節でリー群として導入した回転子全体)を$\operatorname{Spin}(3)$と定義します。
$$ \begin{aligned} \operatorname{Spin}(3) &= \{a\,I + b\,\sigma_1\sigma_2 + c\,\sigma_3\sigma_1 + d\,\sigma_2\sigma_3 \ :\ a^2+b^2+c^2+d^2=1\} \\ &\cong \{a+bi+cj+dk \ :\ a^2+b^2+c^2+d^2=1\} \end{aligned} $$
この同型により、単位四元数のなす群$\operatorname{Sp}(1)$は$\operatorname{Spin}(3)$そのものであることが分かります。これにより、純虚四元数(リー代数$\mathfrak{sp}(1)$)は、前節で導入した回転面(2ベクトル)と対応付けられます。パウリ行列は、四元数をさらに「空間の基底ベクトル」へと因数分解した根本的な部品だと言えます。
ここで視野を一般の次元へ広げます。$n$次元回転群$\operatorname{SO}(n)$に対して、その二重被覆となるリー群が存在し、これをスピン群$\operatorname{Spin}(n)$と定義します。単位四元数として構成した群の幾何学的な正体は$\operatorname{Spin}(3)$であり、それを複素行列で表現したのが$\operatorname{SU}(2)$だという関係です。
$$ \operatorname{Sp}(1) \cong \operatorname{Spin}(3) \cong \operatorname{SU}(2) $$
$\operatorname{Spin}(n)$が行列のリー群と同型になるのは、低次元に限られた偶然の一致です。$\operatorname{Spin}(3) \cong \operatorname{Sp}(1)$のほかには、次回見る$\operatorname{Spin}(4) \cong \operatorname{Sp}(1) \times \operatorname{Sp}(1)$、さらに$\operatorname{Spin}(5) \cong \operatorname{Sp}(2)$と$\operatorname{Spin}(6) \cong \operatorname{SU}(4)$で打ち止めとなります。
純虚四元数を3次元ベクトルと同一視すると、括弧積は外積(ベクトル積)の$2$倍に一致しました。
$$ [p, q] = pq - qp = 2\,(p \times q) $$
一方、今回の視点では純虚四元数は平面です。2つの見方が両立するのは、前節で見たように3次元では平面と法線ベクトルが1対1に対応するためです。高次元では平面の数がベクトルの次元を上回るため、この同一視は崩れ、回転の生成子はベクトルではなく平面(グレード$2$)として扱う必要があります。
四元数の共役作用$qvq^{-1}$では純虚四元数(グレード$2$)を挟みましたが、スピノルの外積で見たように、パウリ行列が張るグレード$1$のベクトル空間を挟んでも同じ回転が得られます。グレード$2$はグレード$1$の$i$倍にすぎず、共役作用は$i$を素通りさせるからです。クリフォード代数による$\operatorname{Spin}(n)$の一般的な構成では、このように偶部分代数の元でグレード$1$のベクトルを挟んで回転を作ります。
冒頭では、スピノルを「回転の半分の角度で変換される複素ベクトル」として導入しました。クリフォード代数の枠組みでは、より一般的な特徴づけが与えられます。クリフォード代数を行列として表現したとき、その行列が作用するベクトルをスピノルと呼びます。3次元のクリフォード代数はパウリ行列が生成する2×2複素行列の代数であり、それが作用するベクトルの空間$\mathbb{C}^2$こそ、今回のスピノルの空間です。
用語を厳密に使い分ける場合、クリフォード代数全体の表現が作用する対象はピノルと呼ばれ、スピノルは偶部分代数の表現が作用する対象を指します。本記事に現れる空間は、いずれも偶部分代数に制限すればスピノルの空間と一致するため、ここでは区別せずスピノルと呼んでいます。
この視点から、$\operatorname{Spin}(3) \cong \operatorname{SU}(2)$が作用する2種類の対象を整理できます。
スピノルの外積からベクトルが得られたことは、この2種類の対象の橋渡しでした。ベクトルがスピノルの2次式で書けるため、スピノルはしばしば「ベクトルの平方根」と呼ばれます。半角と全角の関係も、回転1周でスピノルだけが$-1$倍になること(二重被覆)も、平方根に付きまとう符号の2価性の現れです。
クリフォード代数が行列として表現されるとき、そのスピノルは、行列代数自身の内部に埋め込むこともできます。鍵になるのは、行列の「第1列だけを残し、残りの列をすべて$0$にする」という操作で、この操作は射影行列$P$を右から掛けることで実現できます。
$$ \begin{aligned} P &=\begin{pmatrix}1 & 0\\0 & 0\end{pmatrix}=\frac12(I+\sigma_3) \\ AP &=\begin{pmatrix}\alpha & \gamma \\ \beta & \delta\end{pmatrix} \begin{pmatrix}1 & 0\\0 & 0\end{pmatrix} =\begin{pmatrix}\alpha & 0\\\beta & 0\end{pmatrix} =\frac\alpha2(I+\sigma_3)+\frac\beta2(\sigma_1-i\sigma_2) \end{aligned} $$
$AP$の$\beta$の係数$(\sigma_1-i\sigma_2)/2$は、スピンの下降演算子$\sigma_-$と呼ばれます。これは射影$P$が$\sigma_3$方向のヌルベクトルから作られていることに由来し、このような構成は一般に純粋スピノルと呼ばれ、複素化したクリフォード代数における極大等方部分空間と対応づけられます。
残った第1列$(\alpha,\ \beta)^T$を、そのままスピノルとみなします。$P$は$\sigma_3$の固有値$1$の固有空間への射影であり、冪等($P^2=P$)です。「第2列がすべて$0$」の行列の集合$M_2(\mathbb C)P$は左から掛けてもこの形を保つ左イデアルであり、$P$自身は、恒等行列$I$の第1列を残したものなので、単位元のスピノルにあたります。
この埋め込みが、冒頭のスピノルの外積とどうつながるかを確認します。$AP$自身とそのエルミート共役$(AP)^\dagger$の積を計算すると
$$ (AP)(AP)^\dagger =\begin{pmatrix}\alpha & 0\\\beta & 0\end{pmatrix} \begin{pmatrix}\alpha^* & \beta^*\\0 & 0\end{pmatrix} =\begin{pmatrix}\alpha\alpha^* & \alpha\beta^*\\\beta\alpha^* & \beta\beta^*\end{pmatrix} =\omega\omega^\dagger $$
となります。$AP$は第2列が$0$、$(AP)^\dagger$は第2行が$0$なので、積では第2列・第2行の寄与が現れず、結果は冒頭で定義したスピノルの外積$\omega\omega^\dagger$に一致します。行列の内部に射影で埋め込んだスピノル$AP$は、エルミート共役との積を通して、パウリ行列を取り出した外積の計算とそのままつながっています。
単位スピノルの外積$\omega\omega^\dagger$は、$(\omega\omega^\dagger)^2=\omega(\omega^\dagger\omega)\omega^\dagger=\omega\omega^\dagger$($|\omega|^2=1$より)と冪等になるため、それ自体が固有値$1$(固有ベクトル$\omega$)と固有値$0$の射影行列です。
外積を作る操作$\omega\mapsto\omega\omega^\dagger$は、固有ベクトル$\omega$から射影行列を組み立てる操作であり、逆に見れば、射影行列は固有ベクトルで因数分解できることになります。射影$P=(I+\sigma_3)/2$自身も、この構図の特別な場合です。$\sigma_3$の固有値$+1$の固有ベクトルは$\omega=(1,0)^T$なので
$$ P=\begin{pmatrix}1\\0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1 & 0\end{pmatrix} $$
と、恒等元のスピノルの外積そのものになっています。つまり「第1列だけ残す」射影$P$と、単位ベクトルを与える外積$\omega\omega^\dagger$は、「射影行列=固有ベクトルの外積」という構造の異なる現れ方です。
$\operatorname{SO}(n)$の二重被覆となるリー群を$\operatorname{Spin}(n)$と呼びます。前回構成した$\operatorname{Sp}(1) \cong \operatorname{SU}(2)$の幾何学的な正体は$\operatorname{Spin}(3)$でした。
$\operatorname{SU}(2)$の行列が片側から作用する複素ベクトル$\mathbb{C}^2$の元をスピノルと呼びます。スピノルは回転の半分の角度で変換され、回転1周で$-1$倍、2周ではじめて元に戻ります。単位スピノルの自身との外積$\omega\omega^\dagger$は、片側作用しか受けていないのに共役作用(両側から挟む形)で変換され、その分解からトレース$0$のエルミート行列の基底としてパウリ行列が取り出されます。外積の係数$(n_1, n_2, n_3)$は3次元の単位ベクトルをなし、スピノルへの片側作用は、このベクトルの回転として現れます。
パウリ行列の反交換性$\sigma_a\sigma_b+\sigma_b\sigma_a=0$と$\sigma_a^2=I$は、クリフォード代数と呼ばれる枠組みに由来します。自乗$+I$の生成元$p$個と自乗$-I$の生成元$q$個から生成されるクリフォード代数は$C\ell_{p,q}(\mathbb{R})$と表記され、パウリ行列が生成するのは$C\ell_{3,0}(\mathbb{R})$です。積の因子数をグレードとして、スカラー(グレード$0$)・ベクトル(グレード$1$)・2ベクトル(グレード$2$)・3ベクトル(グレード$3$)に分類されます。2ベクトル(擬ベクトル)は2つのベクトルが張る平面の符号付き面積、3ベクトル(擬スカラー)は3つのベクトルが張る平行六面体の符号付き体積(ベクトルを並べた行列の行列式)を表します。単位2ベクトル$B$は$B^2=-I$を満たすため、指数関数$\exp(\varphi B)$、あるいは同じ平面をなす2つの単位ベクトルの積として回転子が得られ、$B$の実数倍がリー代数、回転子全体がリー群という対応が成り立ちます。回転子$R$は2枚の鏡映の合成にあたり、ベクトル$x$には$x \mapsto R^{-1}xR$の形で作用します。
クリフォード代数の枠組みでは、パウリ行列は3次元空間の直交基底ベクトル(グレード$1$)であり、その積(グレード$2$)が四元数の虚数単位$i, j, k$に対応します。つまり純虚四元数の正体は「回転面」であり、回転子がすべて住む偶数グレードだけの偶部分代数が四元数と完全に同型になります。この同型を対応表として書き下すと、四元数の乗積規則がパウリ行列の反交換関係だけから再現され、$\operatorname{Spin}(3)$は偶部分代数のうちノルム$1$の元、すなわち回転子全体(単位四元数のなす群)として具体的に特定できます。
クリフォード代数を行列として表現したとき、その行列が作用するベクトルがスピノルです。ベクトル(両側から全角の共役作用)とスピノル(片側から半角の作用)という2種類の対象の区別は、今後の記事の基礎となります。スピノルは、行列代数自身の内部にも埋め込めます。「第1列だけを残し、残りの列を$0$にする」射影$P=(I+\sigma_3)/2$を右から掛けると、任意の行列$A$から$AP$としてスピノルが取り出され、そのエルミート共役との積$(AP)(AP)^\dagger$は外積$\omega\omega^\dagger$に一致します。