「無限ホテルのパラドックス」というお話があります。
無限に部屋が存在するホテルがあります。部屋には端から1,2,...と番号がついています。どの部屋にもお客さんがいるとします。そこにお客さんがもうひとり来ました。部屋は"満室"なのにもかかわらず、このホテルにさらに客を宿泊させることができます。1の部屋の人を2の部屋に、2の部屋の人を3の部屋に、...、iの部屋の人をi+1の部屋に動かせば1の部屋が空くので、そこに新たなお客さんに入ってもらえば良いです(図1)。すべての部屋に宿泊客がいるのに、さらに宿泊客を増やせるというのがパラドックスのように感じます。
無限ホテルの1号室を空ける
このお話は、無限大の集合の要素は数え上げることが不可能であり、一対一対応が可能か否かの比較によってのみ集合の"大きさ"(いわゆる濃度)を測りうることを示しています。無限大という概念がいかに我々の感覚と異なるかを浮き彫りにする例え話です。このような話を聞くと「無限大は実世界には存在しない。単なる数学的な定義の問題であって、現実とは関係ない」と思うのではないでしょうか。
しかし実は無限ホテルに対応する物理 − ABJ anomaly − が存在します。 ABJはこの現象を最初に議論したAdler, Bell, Jackiwの3人の頭文字です。"anomaly"は「異常」という意味の一般名詞ですが、この場合「量子異常」「量子アノマリー」のことを指します。量子異常とは、量子効果により古典的な対称性が破れる現象を表す言葉です。
以下この物理現象に関して述べます。これは量子力学と特殊相対性理論を融合がもたらす"無限"により生じます。そしてこの現象は量子論のトポロジカルな側面と関係します。
本記事はRef.[1]の"The infinite-hotel story"という章およびRef.[2]を元にしています。本記事を読むにはある程度量子力学の知識が必要な部分があります。しかし、ここで言いたいことは難しいことではありません。途中でわけわからなくなったり面倒になったら「ABJ anomalyの無限ホテルによる例え」の章に飛んでください。ここを読むと、この現象と無限ホテルとの対応に関する感覚は理解できるんじゃないかと思います。ポイントはディラックの海には底がないことです。
ディラックの海(以下Diracの海と表記します)、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。まずこの概念を簡単に説明します。
量子力学ではSchrödinger方程式(SE)
(本記事では自然単位系:
により「状態の時間発展」=「波動関数
SEをLTの下で不変になるように拡張するのは簡単です。相対論ではエネルギー
を入れればKlein-Gordon方程式(KGE)
を得ます。ところがKGEには以下の2つの問題があります。
まず1.について。量子力学では、
1.の問題はDirac方程式(DE):
で解決されます。
しかしながら、DEを採用しても2.の問題が残ります。DEの解はエネルギーに関してプラスマイナス対称に存在します。つまり、正のエネルギー
これを救済するアイディアが「Diracの海」です(図2)。DEによって記述される粒子はフェルミオンと呼ばれ、この粒子は1つのエネルギー準位に1つしか入れません。ならば、負のエネルギー状態はもともと粒子で埋まっている(正確には、粒子の質量を
Diracの海における粒子描像。●は占有されている状態、○は空いている状態。×は禁制帯。
【左図】 E<0の状態は全て埋まっていて、E>0の状態は全て空いている真空状態。粒子も反粒子も存在しない。
【右図】 E<0におけるある占有状態がE>0に励起した図。E<0に穴が空いた状態が存在し、E>0に占有された状態が存在すると、それらはそれぞれ反粒子と粒子として観測される
これでフェルミオンに関しては1.2.の問題が解決されました。ただ、世の中にはフェルミオンの他にボソンと呼ばれる粒子があります。これは1つのエネルギー準位にいくつでも入れるので、残念ながらDiracの海のアイディアで2.を解決することはできません。その解決は「場の量子論」によりなされます
しかしながら、DEは間違っているわけではありません。例えばDEはSEでは説明できない水素原子のエネルギー準位を再現します。SEと場の量子論の間に、 DEが有効な記述を与えるエネルギー領域が存在します。
本記事では、場の量子論に踏み込むことなく、無限ホテルに対応する物理であるABJ anomalyの概要を説明します。後述しますが、ABJ anomalyの本質はDirac作用素のゼロモードに関連しているので、そういう意味ではDEの考察で十分なのです。
以下「無限ホテル」との対応を簡単かつ明確にするため、
ここで
Weyl表現:
となります。これをみると
となります。
が成り立ちます。ここでドットは時間微分を表します。
となります。以下で電場を
次に、粒子に電磁場をカップルさせます。このときDEは
となります。ここで
が成立します。すなわち一様電場によって粒子は
電場をかけてもRHとLHは分離しているので、両者の粒子数は変わらないように思います。しかし、Diracの海の描像では状況が違います。
図3はRHとLHの真空状態、図4は電場による状態の変化を示した図です。電場がかかる前は、エネルギーゼロのところまで粒子が占有し、そこから上には粒子がない状態だとします(図3)。電場をかける前の「Diracの海」はこのようなものであり、元々の真空
RHとLHの真空状態。縦軸はエネルギー
ここに電場をかけます(図4)。するとEq.(1)にあるように、RHの粒子は加速され、負のエネルギー状態に存在した粒子が正エネルギーに顔をだしてきます。これは、無限ホテルと同じで、それぞれの部屋にいた粒子達が、より高いエネルギーの部屋に皆同時に上がっていく状況に対応します。正エネルギーに顔をだした粒子は粒子数に正の寄与をします。逆に、LHは正のエネルギー状態に存在した粒子が負エネルギーに沈んでいきます。沈んでいくと、負のエネルギー状態に穴が開きます。これはLHの反粒子の生成に対応し、粒子数に負の寄与をします。
ここで、周期的な世界を考えます。
とします。すると(空間部分の波動関数は
です。一方LHは
です。よって
を得ます。
以上行ったことを振り返ります。もともとRHとLHは分離しており、電場もこれらを混ぜることはないので、
Diracの海の描像では、正エネルギーの粒子の数が粒子数に正の寄与をし、負エネルギーに開いた穴は、粒子数に負の寄与をします。さらに、Diracの海に底がないことから、底の影響を考える必要がないのが大切です。仮に、海の負のエネルギー部分のあるところまでしか粒子が埋まっておらず、あるところから下は埋まっていないとします(図5。茶色の線から下は状態が空いているとする)。すると、RHの正エネルギー部分に顔を出した粒子が粒子数に正の寄与をした分、それまで埋まっていた負のエネルギー状態に穴が開き(図5左図の下3つの白丸)、これがRH粒子数に負の寄与を与えるので、結局RHの粒子数
Diracの海の"底"の影響(※実際には底は存在しません)。この場合、RHもLHもその粒子数は変化せず、
前章の議論を無限ホテルに例えます。
RHの粒子を男性、LHを女性とします
エネルギー状態の1つ1つはホテルの部屋であり、1室には1人しか泊まれないとします。また、部屋は男性用と女性用にわかれています。エネルギーの大きさは高さに例えます。地上の部屋には、地面に近い方から1,2,3...と番号がつけられています。同様に、地下の部屋には、地面に近い方から-1,-2,-3...と番号がつけられています。
最初(
このとき、時刻
そもそも
と定義します。
では、
ここでは、地面から有限の範囲の部屋だけ考え(無限の底は考慮しない)、
(ガウス記号をつけるのが正しいのでしょうが、そのへんは適当で)
です。よって全人数を
となります。
これは一見不思議な結果です。男女とも部屋を移っているだけなので、人数は男女ともに変化がなく、
次に(3+1)次元のABJ anomalyについて述べます。
この場合重要なのは、電場だけでなく磁場が存在する状況を設定することです。
これに関しては別記事を書きました:
(3+1)次元一様磁場中のワイル粒子
ここではこの記事の結果のみ引用します。
(3+1)次元において、
ここで
粒子のdispersionは以下のようにまとめられます:
このdispersion relationを図にしたのが図8です。
z方向に一様な磁場がかかったときの粒子のdispersion relation
これをみると、
ここに(1+1)次元の場合と同様電場を3方向(z方向)にかければ、RHの粒子は加速され
となります。よって
です。この場合も
ちなみに、電場は断熱的(adiabatic)にかけます。これは、
(3+1)次元では磁場をかけることで線形のdispersionを持つモードが出現し、そこに電場をかけることがABJ anomalyに重要でした。(3+1)次元で電場と磁場が必要な理由を考えます。
対称性が存在する場合、それに対応するカレントなるものが存在します(ネーターの定理)。
空間
が成立します。(1+1)次元のとき
になります(
が成立します。よって発散はゼロではなく、軸性ベクトル対称性が破れていることがわかります。この式から、(3+1)次元の場合の発散は、
となるのではないかと推察されます。そしてこの推測は正しいです。天下りですが、量子電磁気学(Quantum ElectroDynamics, QED)における軸性ベクトルカレントの発散は一般の
と書けます(Ref.[3]P667)。そして
なので、(3+1)次元におけるABJ anomalyは電場と磁場の内積に比例します。これが(3+1)次元で電場だけでなく磁場を必要とした原因です。
(3+1)次元において、
に代入すると、少しの計算ののち
となり、Eq.(2)の結果を再現します。
Eq.(3)で示した式はどのように導かれたのでしょうか。これに関しては後日他の記事で述べますがMathlogFujikawaMathlogZeromode、ここでは概要だけ述べておきます。
改めてABJ anomalyが生じた原因をまとめておきます。
の状態占有数のRHとLHの差によるものでした。そしてそれは線形なdispersionのモードにより引き起こされました。(1+1)次元ではそもそも線形なdispersionのモードしかありませんでした。(3+1)次元では、双曲的なdispersionをもつモードと線形なdispersionのモードがありました。しかし、双曲的なモードはRHもLHも同じであり、正負エネルギー間の状態のフローも存在しないため、
さて、Eq.(3)は場の量子論の計算から導かれます。場の量子論において、ABJ anomalyを直観的に理解するには、経路積分がわかりやすいです(藤川の方法。Ref.[4]MathlogFujikawa)。経路積分形式の場の量子論では、このゼロモードの存在が、軸性ベクトル変換(
ABJ anomalyは、RHとLHのゼロモードの差というWeyl粒子の性質、ひいてはDirac作用素の性質が、ゲージ場の性質(
スピン
多様体 の上の複素ベクトル束の間の楕円型微分作用素について、解析的指数と呼ばれる量と位相的指数と呼ばれる量とが等しいという定理である。解析的指数は与えられた楕円型微分作用素が定める偏微分方程式の解の次元を表す解析的な量であり、一方で位相的指数は微分作用素の主表象をもとにして多様体のコホモロジーを通じて定義される幾何的な量である。
上記の楕円型微分作用素は、本記事ではDirac作用素
ABJ anomalyだけでなく、一般に、量子アノマリーはゲージ場の大域的な位相構造により決定され、詳細な構造には依存しません。
ここでABJ anomalyが現実に起きるかについて考えます。
ここまでの議論は真空の話でした。もし世の中に電荷をもつWeyl粒子が存在したら、真空に磁場と電場を並行にかけることで、RHの粒子とLHの反粒子の生成が起きるでしょう。完全に質量ゼロでなくとも、それが非常に軽ければ、粒子の質量に対し非常に強い磁場と電場をかけることで同様の現象は起こるんじゃないかと思います。しかし、最も質量の小さいDirac粒子である電子でさえ、その質量に対し強い電磁場を発生させることは、現在のところ不可能です
では結局ABJ anomalyは現実では起きないのでしょうか。実はABJ anomalyは中性パイオンの崩壊を説明します。というか、もともとABJ anomalyはこの物理現象に関連して議論されました(Ref.[6][7]MathlogPion)。
電荷ゼロのパイオンである中性パイオン
中性パイオンに関わる軸性ベクトルカレントの発散は、パイオン質量がゼロの場合
となります。右辺は
上記のファインマン・ダイアグラムの計算は、上記した経路積分の方法(=藤川の方法)と本質的には同じですが、量子異常のトポロジカルな側面を理解するには藤川の方法が優れていますMathlogFujikawa。
線形発散の正則化の方法を指定することは、Diracの海の描像で言えば、ホテルの底をどこか有限の部屋番号でとりあえず切っておき、そこまで考慮して計算し、最後に無限大にもっていくようなことだと思えばいいです。「ABJ anomalyの無限ホテルによる例え」で言えば、男女の人数を
と定義し、後で
となります。
「実世界のABJ anomaly」としてもうひとつ重要なことに、物性系におけるABJ anomalyの実現があります。これは近年注目を集めている、物性系におけるトポロジーの話題 − Weyl semimetal、Graphene、topological insulator等 − と関係します。これらの系に線形のdispersionのモードが存在することが重要です。Ref.[8]ではこれらの現象にABJ anomalyの観点で言及しています。
これら物性系の話題に関しては、他の記事で改めて書こうと思います。
(31Oct.2022追記: Ref.[10]のレクチャーノートに、物性系における量子アノマリーの入門的内容が網羅的に記載されています)
本記事では「無限ホテルのパラドックス」を土台にして、ABJ anomalyについて解説しました。
「質量ゼロのDirac粒子」=「Weyl粒子」が存在する場合、(1+1)次元において真空中に電場をかけると、古典的には生じ得ない
(3+1)次元では電場と磁場の両方が存在する場合に
本記事で記したABJ anomalyは「Atiyah-Patodi-Singerの指数定理」=「境界つき多様体上のAtiyah-Singerの指数定理」と関係します。RHとLHのモードの差は、占有された状態が電場により"流れる"「スペクトルの流れ」で表されました。この事実はもっときちんと数学的に扱うことができます。これに関してはまた記事にします。
もともとABJ anomalyは中性パイオンの崩壊に関係するダイアグラムの計算により発見されました。これに関しては本記事では少し言及するに留めました(11Aug.2023追記:MathlogPionに詳細を書きました)。また物性系とABJ anomalyの関連に関しては殆ど何も話しませんでした。これらに関してもそのうち記事にしたいと思います。
おしまい。